念佛を称えねばならぬとか、称えなくても信心さえあればそれでよいとか、何とか彼とか言うのは、まだほんとうに如来の本願力がわかってない。
「ああ、忝い」と、本願のみこころ、親の大悲、佛智不思議を仰いで、頭が下がったのであれば、頭が下がると同時に念佛はひとりでに口に浮かんでくださる。その念佛が本願力そのものである。それが御恩報謝になると仰せられるから、勿体ないことである。
佛法は頭で考えて合点すればそれでよいというものではない。心に如来の大悲心が感得されなければ何にもならぬ。
とは言うものの、佛法を聞いてみようかと思う一念でも、その功徳は莫大である。計り知ることが出来ない。まして一語でも半句でも聞いて信を起こすならば、諸天善神もよろこびまもりたもうのである。佛法は功徳の泉である。
稲垣瑞劔師「法雷」第79号(1983年7月発行)
2 件のコメント:
「諸天善神もよろこびまもりたもうのである」
とあります。
『浄土和讃』に、
南無阿弥陀仏をとなふれば
他化天の大魔王
釈迦牟尼仏のみまへにて
まもらんとこそちかひしか
天神・地祇はことごとく
善鬼神となづけたり
これらの善神みなともに
念仏のひとをまもるなり
と、お示しくださっています。
「功徳莫大なるゆゑに 本願にあふことをよろこぶべし」(横川法語)
よろこぶべきは功徳の大小ではなく、「まかせよ」のご本願にお遇いしたことである、とのお示しがありがたい。
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