念佛というのは、自然(じねん)であり、法爾である。願力自然である。
如来の智慧・慈悲・方便の御はからいで私どもは易々と往生することが出来るのである。願力自然のところを念佛という。忝いと思うこころを念佛という。その忝さが口に現れて南無阿弥陀佛 南無阿弥陀佛と称えて、「南無阿弥陀佛」をほめたたえるのを、また念佛というのである。さればこそ我等は、
「ただ念佛して弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとの仰せをかふりて信ずるほかに別の子細なきなり」
となるのである。全く自力のはからいの無いことを自然(じねん)と申すのである。佛が本願力で衆生を助けるのに、何の無理があろうか、何の出来ないことがあろうか。それが自然(じねん)である。如来にはからわれて私どもは、やすやすと往生するのである。これまた自然(じねん)である。
真宗の安心も、自然(じねん)までゆかぬと肩のこりが取れぬ。本願力の自然が、とくと腹に入ると生死の重荷が下りる。
どこやらに力こぶが入ったり、何何せねばお助けにあずかれぬと思ったり、佛菩薩にお祈りしようと思う心が微塵ほどでもあったら、それは苦しい。往生についてもいつもびくびくしておらねばならぬ。
他力とは「如来の本願力」のことである。これすなわち自然(じねん)である。これ安楽の法門である。よしあしをも飛び越えて、本願力にまかしたのが、佛法をよく心得たというものである。物知りが佛法者ではない。
稲垣瑞劔師「法雷」第80号(1983年8月発行)
2 件のコメント:
「自然(じねん)」といふは、「自」はおのづからといふ、行者のはからひにあらず、
「然」といふは、しからしむといふことばなり。しからしむといふは、行者のはからひにあらず、
と『末灯抄』にて教えていただいています。
「末灯鈔」の御文も「和讃」の自然法爾章も、宗祖最晩年に到るまで「如来のはからいであって、行者のはからいにあらず」とお諭し下さっています。この力を尽くした御勧化が今も末弟を導いてくださっています。
コメントを投稿