2024年5月20日月曜日

死の解決㈤

 たとい成佛する教えがあり、道があっても難行苦行ではあかん。それを修するに長日月を要し、すべての善を実践し、心の猿を退治し、心の駒を縛り付け、逆巻く意識の波を鎮めなければならないというのでは、今目の前にある死の解決には役に立たぬ。たとい千年の寿を保つとも、今日の凡愚としては、廃悪修善 行じ難く、息慮凝心は思いも寄らぬことである。

 法と合一し、真理と一如になって、文字通り慈悲の光明、救いの大生命であらせられる人はお釈迦様である。何億万年に一人出るか出ないか分からぬほどの偉い人である。
 お釈迦様は佛陀である。すべての人間は、たとい罪深くとも一心に帰命すれば必ず佛陀に成り得られる、ということをお説きになった。
 そういう教えを説いた人はお釈迦様ただ一人である。そしてお釈迦様は不死の大生命そのものである。佛陀のことばは真実である。大道である。佛陀は一切衆生の生命であり、血肉である。

 お釈迦様と同じように佛陀であり、またお釈迦様の本地である佛陀が阿弥陀如来である。お釈迦様は阿弥陀如来のことばを聞け、本願を聞けと教えたもうた。その勧めのことばが大蔵経である。大蔵経のエキスが「南無阿弥陀佛」という本願である。
 「南無阿弥陀佛」は阿弥陀如来である。親様である。本願は如来の「よびごえ」である。「よびごえ」は「仰せ」である。

 「汝一心正念にして直ちに来たれ、我能く汝を護らん」

という仰せである。この「仰せ」、この「勅命」が久遠のむかしから尽十方に響き渡っておる。「勅命」は如来の智慧であり、力であり、功徳であり、光明であり、宇宙の大真理であり、大生命である。

 勅命が佛か、佛が勅命か、不二一体の如来を「南無阿弥陀佛」というのである。
 人間は唯だ阿弥陀如来の大慈悲によってのみ救われ、大涅槃に到り、佛陀に成ることができる。右を見、左を見てぐずぐずしていては道を失い、永遠の亡びに至る。

稲垣瑞劔師「法雷」第84号(1983年12月発行)

5 件のコメント:

土見誠輝 さんのコメント...
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土見誠輝 さんのコメント...

「「南無阿弥陀佛」は阿弥陀如来である。」とあります。

阿弥陀仏が南無阿弥陀佛となって私のところに届いてくださっています。ときかせていただいています。


しかし、ここの所を「汝は南無阿弥陀佛だ」と言っている人がいました。何か奇をてらった説教で、ハッキリ言えば止めてほしいところです。

土見誠輝 さんのコメント...

南無阿弥陀佛は、私たちから言えばいただくものです。届けられているものです。
それに反して、私が南無阿弥陀佛であるなら、いただく必要はありません。届けられる必要はありません。
ここで「汝は南無阿弥陀佛だ」と言うのは、よくわからない事になってしまいます。
だから、止めてほしいところです。

光瑞寺 さんのコメント...

名号を誤解させ、阿弥陀さまを死なせてしまっているようで残念ですね。

阿弥陀様のお救いを簡単に言うのは難しいのでしょう。
人間が素直でない。

土見誠輝 さんのコメント...

私が南無阿弥陀仏であるならば、神も仏も必要はありません。
生死の苦海に沈むこともありません。
阿弥陀様が、私のために願をたてられ、そのとおりに成就される必要もありません。

「人間は唯だ阿弥陀如来の大慈悲によってのみ救われ」と教えていただいています。

よびごえの うちに信心 落處あり

 佛智の不思議は、本当に不思議で、凡夫などの想像も及ばぬところである。佛には佛智と大悲がとろけ合っておる。それがまた勅命とも名号ともとろけ合っておる。  佛の境界は、妄念に満ち満ちた私の心を、佛の心の鏡に映じて摂取不捨と抱き取って下された機法一体の大正覚である。もはや佛心の鏡に映...