これでよし、これで悪いは皆自力。どうしたら参れるかと思うのは、参られぬ証拠である。
佛法はそんなに易いものか、そうや。易中の易である。本願力で参るからである。そんなことで参られるのか、そうや。それだから、佛法力不思議、願力不思議、如来親様が不思議である。
阿弥陀様の誓願不思議を、不思議といただく外に往生の道はない。
こちらは何も知らず、何もせず、何ともない、あさましいものである。それだけに、如来様がお一人、はたらいてござるのである。何ともなくて参られるから、ありがたい。このままで参られるから、ありがたい。佛智不思議の底が知れぬ。阿弥陀如来の本願力の底が知れぬ。南無阿弥陀佛のお力の底が知れぬ。
お慈悲じゃなあ。親様じゃなあ。
ああ辛といふはあとなり 唐辛子
勢つきて 汲み上げられし 蛙(かはづ)哉
やれうれし けさもまた念々相続 み佛の
お慈悲はありあり眼の前に お立ちあそばす如来さま
お顔のうちに生死をはなる 我もまた彼の摂取のうちに在り
ともに参ろう 法の友
けさもまた 光り輝く み佛の お顔おがみて うれしなつかし
お内佛の阿弥陀様が、四十八本の光明を放ってござる。あの光明が、ずうっと延びて、私を抱いていてくださる。
この世は、夢じゃ夢じゃ。いざ光りの家郷に帰らん哉。
いまは早や こころにかかる 雲もなし 見られ知られて 参る極楽
朝な夕なに、南無阿弥陀佛の生き佛様が、耳から口から出入りしてくださっているのが有難い。南無阿弥陀佛 南無阿弥陀佛
夜はくらし 道もわからぬ その時に
阿弥陀如来が手を引いて 本願力は大きいでなあ
お念佛が称えられぬか、そうか、称えられたらよし、称えられなければよし、助けることは、きっと助けるぞ。お慈悲が大きいでなあ。
よろこびが出んか、そうかよろこべたらよし、よろこべなければよし。助けることは必ず助けるぞ。本願力は大きいでなあ。
地獄へ落ちそうなか、そうか、落ちるなら、いっしょに落ちようや。仰せくださるお慈悲なり。親様じゃなあ。
稲垣瑞劔師「法雷」第87号(1984年3月発行)
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