佛眼が開ける
一切の真理は、往生してみれば分かることである。あまり急ぐことはない。盲人が、手を引いてもろうて極楽に往生すれば、そのとき佛眼が開ける。佛知見を以て見たのがほんまである。それを「実相」という。まあ往生してからの楽しみにしておこうではないか。
願力自然
人間の見方、考え方は、すべて「無明」と「我執」を被っておるから、最高の真理ではない。本願一実の大道は、大悲の佛智なるが故に、涅槃のみやこへ到ることができる。信心の生活は、本願の大道を歩むことである。これを「自然」という。「願力自然」である。人生もまた無理があれば病気になったり、貧血になったり、長寿はできぬ。
すかっと行かぬ
どうもすかっと行かぬものだ。自力の蓮は折れたようでも、糸が引っ張っておる。糸というのが「はからい」である。
佛因と佛果
佛書を読む、佛法を聞く、後に何が残るか。凡夫の思いであるか、覚えた記憶であるか、それともまた、虚仮の行、雑毒の善の足型であろう。そんなものでは、大涅槃に到ることはできない。佛因(本願力、信心)にあらずば佛果は得られない。
自力の畑に
本願力を信受した人は、勅命に信順した人である。その人は凡夫にあらず、聖者にあらず、平々凡々である。人間生活をしながら、心はつねに本願海にあそんでおる。人生解決の鍵は此処にある。
本願海
本願海とは、よく言うたものである。最後のよりたのみ、よりかかりは本願である。それをあらわしたものが南無阿弥陀佛である。
光寿の世界
光寿二無量の世界は、直ちに凡夫の眼で、これを認識することはできぬ。それが南無阿弥陀佛となってわれらを喚びたもう。
自力の向上心
佛法に「無心」「無我」「空」ということがあるが、凡夫自力の向上心、力みごころ、聞きごころを取り去ることは、底下の凡愚としては不可能である。佛の不思議力を仰ぐところ、肩の荷が下りたように「さてはさては」とあきれ果て、少しも、向上的努力を要せずして佛に成る。本願力の宗教の真面目は、此処にある。
本願力の独立
佛教を語っても皆説明になる。説明にならぬ佛法は、本願力の独立である。ひとりばたらきである。知性に訴えて、知性を超えたところに、信心の光りがあらわれる。信心の光りは、即ち本願力の光りである。
稲垣瑞劔師「法雷」第87号(1984年3月発行)
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