序
さきに『教行信証と歎異抄の味わい』と題して拙著を公にした。『教行信証』は堂々たる立教開宗、乾坤独歩の大著作である。そこに出ておられる親鸞聖人は、正装して真佛弟子のマークを胸に装い、釈尊に代わる正師として高台に立ち、千億万の群衆に対し、無限の時間にわたって、本願一乗絶対不二の真教を獅子吼しておられる姿が想像される。
これに反して『歎異抄』は、威風凜々、光顔巍々たる聖人でなくて、どちらかといえば、我が家に帰ってゆったりと坐って、静かに、情を難思の法海に流しておられるような聖人がうかがわれる。それはまことに、やさしく、なつかしい姿である。それだけ聖人を、我ら愚悪の凡夫の間近に拝することができるのである。
しかればすなわち、涯底なき如来の一乗大智願海と、浄土真宗の雄渾自然の大法門を窺わんと欲するものは、須く『教行信証』を拝読すべく、速やかに生死を離れんと欲するものは『歎異抄』を味読して、誓願不思議に徹底せられることが望ましい。
ここに見落としてならぬものは『和讃』である。
これは「小教行信証」とでもいうべき無上の宝典であって、一般的立場から見て、私はこれほどよい書物を他に見ないのである。一にも『和讃』二にも『和讃』だと思っておる。私も七十年あまり拝見しておるが、如来の大悲心が一字一字ににじみ出ておる。僧俗を問わず、『和讃』に全精力を傾けて、一生涯味わわれたならば、如来選択の願心にふれ、大聖世尊の慈訓に接し、金剛心の樹立に於いて、遺憾なかろうと思う。
『和讃』は聖人の大信海の詩的発露であるから、深くしてしかも味わいやすく、味わって人生の苦悩を忘れる。ここに聖人の威容顕曜たる姿にも、また浴衣掛けのお姿にも、同時に接し得られるであろう。
前の拙著は『教行信証』にすわって『歎異抄』を窺ったのであったが、今般その姉妹篇として、特に『和讃』にすわって、『歎異抄』の最も難所であり、また易々たる大道でもある「ただ念佛して」云々の聖句を共に味わいたいと思う。まことに汲めども尽きぬ無蓋の大悲心と、無碍の佛智とが、この一句に収まっていることを感ずる。
本書は平易を主として、わずかにその九牛の一を味わったに過ぎない。仰ぎ希わくは、百千巻の書を読むよりも『和讃』と『歎異抄』とを精読していただきたい。
私のごとき、愚痴暗鈍のうろうろ者は、ただ恩師 桂利劔先生と、慈悲深き父母を通して、佛語の中にのみ安らがせていただいているのである。いずれの日にか、佛祖の大恩に報い奉ることができるよう。一言述べて序と為す。
稲垣瑞劔師「法雷」第88号(1984年4月発行)
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