一、第一の関所
『歎異抄』第二章に曰く、
「親鸞におきては、ただ念佛して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひとの仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。」
と。「ただ念佛して」が関所じゃ。この関所は、一切衆生いかなる人も通れるようになっておるのであるが、この関所を通る人が少ない。どうして通ろうかと、思案工夫するから通れぬ。ただ念佛して通れば、すうと通れる。
「ただ念佛して」の関所は、ただ念佛して通ればよい。何でも念佛して通ろうと思うと、念佛に力こぶがいる。力こぶを入れては、自力の「我」が出る。「我」が出ては佛法にならぬ。
本願の大道には門があるが、なかなかその門が通れぬ。これまでにその門を通った人は千万無量の数に上っておるのであるが、自分の力で眼を開き、自分の力で足を運んで通ろうとした者は、皆落第してしまった。
本願は喚び、大道は「直ちに来たれ」と喚んでおるのであるが、その声を素直に聞く人がない。聞く人がないから、通る人がない。それでは本願も大道も泣いてござる。久遠劫来、私につきまとって最も親しい念佛が、「信じよう」「称えよう」と出かけるものだから、ますます私に疎遠なものになってしまう。
たまたま、その声を聞いた人がある。聞くことは聞いたのであるが、「自分が聞いた」「我が聞いた」と思って、聞いたことが自慢になる、うぬぼれになる。これも感心しない。
ところが、田舎の有難い一文不知のお婆さんがおる。その人は「聞いた」ともいわぬ、「聞かぬ」ともいわぬ。ただ「不思議の御本願で、よんでくださることが有難い」と言っておる。
「聞いたか」「聞こえたか」と再び問い返すと、そのお婆さんは「聞いたとも申されませぬ、聞こえぬとも申されませぬ。私一人をよんでくださるのが忝うございます。」と言うておる。妙なお人じゃ。じゃが、この妙なお人には、なかなかなれぬぞよ。
法然上人が「わしは、ただ念佛して、阿弥陀様にたすけられる。ただそれだけである。その外のことは存ぜぬのじゃ、知らぬのじゃ」と仰せられたら、親鸞聖人は「南無阿弥陀佛、南無阿弥陀佛」と、よろこばれた。
今日のお同行は、お説教を聞いて「ただ念佛して」の話をすると、直ぐに「それでは、私も念佛して阿弥陀様に助けてもらおう」と、早や、自分の方から往生の条件にかなおうと思い、本願に相応しようと思い、「よびごえ」を聞こうと出る。「直ちに来たれ」の「よびごえ」がかかっておるのに、今さら聞こうと出るのもおかしなことである。
阿弥陀様があらわれてくださって、「待っておるぞよ」と仰せくださったものを、こちらの方で「それでは念佛して助けてもらおう」と出るのは、ちょうど、「お浄土へ参るには、何も土産を持たずに参るわけにはゆかぬ、念佛のお土産でも持って参りましょう」と思って、自分で手作りのお念佛を下げて、浄土参りの支度をするようなものである。
阿弥陀様は、
「手作りのお念佛のだんごは嫌いじゃ、わしは食わぬ」
と仰せられる。
「それじゃというて何も手土産を持たずに参るというのは、何やら義理がすまぬような気がする。土産を持たしてくださったら、私も心に頼りができて、気が楽になるのに」
などと思う人ばかり。それ故、お浄土は、
「往き易くして人なし」
である。
阿弥陀様に義理立てすることが何があるか。そのように土産を持って行きたかったら、六波羅蜜の行なり、八正道の行なり、諸善万行のぼた餅なり、なんぞ土産らしいものを持って行くがよかろう。そんなら阿弥陀様は、哀しみながら上品上生のお浄土の桟敷に上げてくださるであろう。
その土産がこちらの方でできぬということを、久遠の昔に見抜いて、見抜いた上で、「直ちに来たれ」とよんでくだされてある。その親の大悲のほども知らずに、手作りの土産を持参しようとは、それを御恩知らずというものである。
「ただ念佛して」とは、
「お浄土参りの土産までも、如来の方で、万善円備の嘉号は悪を転じて徳を成す正智と、ちゃんと作っておいたから、お前は空手で参ってこい、早く来い、待っておるぞよ」
と仰せくださる大悲の御声が「ただ念佛して」の味わいである。
その大悲の親心が「真心徹到」と私のむねに到りとどいたとき、不思議に、私の口から南無阿弥陀佛、南無阿弥陀佛と、お念佛があらわれてくださる。それが「ただ念佛して」である。
稲垣瑞劔師「法雷」第88号(1984年4月発行)
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