2025年1月15日水曜日

和讃と歎異抄の味わい⑶

 学者もお気の毒なものじゃ。学問すると学問くさくなる。多く知ると、知者くさくなる。分別すると、物知りくさくなる。分かったら、悧口くさくなる。人に説教ばかりしておると、説教くさくなる。坊さんくさくなる。何を見ても聞いても、説教の種にしようと種探しをやると、種物屋くさくなる。何でも佛法の上は、くさくなってはあかん。
 「味噌の味噌くさきは上味噌にあらず」というでないか。そういう私も、だいぶん味噌くさくなっておる。あさましいことである。はずかしいことじゃ。それで私は、如来様のお店の品物だけ受け売りさせてもらうことに極めておる。

 凡夫という奴は、何もできぬくせに、神様や仏様に土産物を差し上げ、その代わり病気を治してくださいとか、厄を逃れさせてくれとか、お金が儲かるようにとか、商売が繁昌するようにとか、長寿させてくれとか、無理な注文やお願いや、祈願をする悪い癖がある。まるで海老で鯛を釣ろうとしておる。そう甘(うま)くいってくれるとこちらは都合がよいが、そう甘くはゆかぬ。人間同士ならいざ知らず、神仏に対して、あんまり商売根性を出さぬことじゃ。
  
 どうしてもこうしても如来様へ土産を持参したいのならば、久遠劫来造りと造った悪業煩悩を持って、極楽行きの土産にしなされ。それなら阿弥陀様も、およろこびくださることであろう。その外の土産は、まっぴら御免と仰せられてある。
 「でも、少しなりとも善い心を、少しなりともうれしい思いを、少しなりともお浄土が恋しい思いを、少しなりともお念佛を、また何はなくとも信心を、お土産にしようと思いますが、いけませんか」
 「何を言うのだ。『阿弥陀経』には不可以少善根福徳因縁得生彼国と、あるでないか」
 人間という奴は、善人面をしておるが、一皮むいたら、腹の中は誰もかも我利我利虫がうようよしておる、「少しなりとも善い心を」などというが、自分の眼に見えるような善根なら、それは浄い善根ではない。虚仮の行、雑毒の善じゃ。善に似て、そのまま悪じゃ。何んぼ聞いたとて、うれしゅうなるものか。うれしい心を、煩悩が抑えつけて、うれしくさせてくれぬ。
 「お浄土が恋しい」、それ何を言うのか。心にもないことは言うまいぞ、後生はお浄土と肚が極まっていても、一分間でも居りたいのがこの娑婆じゃ。『歎異抄』には、

 「よくよく案じみれば、天にをどり地にをどるほどによろこぶべきことを、よろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもひたまふなり。よろこぶべきこころをおさへて、よろこばざるは煩悩の所為なり。」

と仰せられ、また、

 「久遠劫よりいままで流転せる苦悩の旧里はすてがたく、いまだ生まれざる安養浄土はこひしからず候ふこと、まことによくよく煩悩の興盛に候ふにこそ。なごりをしくおもへども、娑婆の縁尽きて、ちからなくしてをはるときに、かの土へはまゐるべきなり。」

と仰せられてあるではないか。信を得た人は、口と心とが一致するものじゃ。
 「心がどうしても安心してくれませぬ。安心さえしてくれたら、それでよろしい。どうぞ安心させてくだされ」
 これも虫のよい注文じゃ。如来のお慈悲をよくよく聴聞せんでおって、「安心」「安心」と言いなさるな。そうせかせか言うたところで、やすやすと安心ができるものではない。
 それよりも、もっと性根を入れて聞きなされ。如来様は私の安心までも注文してござらぬ。「本願力は聞かいでもよい。安心さえお前の方で造ってきたら、それでお浄土へ参らすぞよ」と、ただの一遍でも、阿弥陀様が仰せられたことはない。『大経』様には、

 「其の名号を聞いて信心歓喜し、乃至一念せん」

と仰せられ、名号の威神功徳不可思議力が、不思議 不思議と、不思議に私の胸に徹ったならば、歓喜はひとりでに出ると仰せられた。
 「歓喜」というても、往生に苦の抜けたことを言うのである。いざ後生と踏み出してみて、生死岸頭に立ちて、少しも不安の思いがなくなったのを歓喜というのである。
 この歓喜は「無楽の大楽」じゃ。うれしいことのないうれしさじゃ。「安心も、もう要らぬわ」といった大安心じゃ。お前さんのように、安心安心と安心を欲しがらないで、「もう安心も要らぬ」と踏み出されぬか。如来様の本願は、「自分の安心に眼をつけて来いよ」でない。

 「ただ本願力で助くるぞ」

である。「ただ本願力で助くるぞ」のおよびごえであるから、法然上人は、

 「ただ往生極楽のためには南無阿弥陀佛と申せば」

と仰せられたのである。親鸞聖人も、

 「ただ念佛して」

と仰せられた。「ただ念佛して」のお味わいは、「ただ如来の本願力で助くるぞよ」ということである。「ただ念佛して」の「ただ」は、こちらの方で土産を造らぬことじゃ。ただ本願力の「ただ」である。

稲垣瑞劔師「法雷」第89号(1984年5月発行)

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念佛のうた㈠

私は「ただ念佛して」を拝して、そのこころを歌に詠んだ。    念佛のうた 佛法は 耳で聞いて 眼で聞いて 心で聞いて 身で聞いて 身に佛法が つくことは これ上上の 聞きかたか 「無常」を観じ 念じつめ 後生のことに おどろいて 透れぬ関所に ぶちあたり 「解脱の耳」を 振り立て...