二、求めるものなし
宇治の万福寺は、禅宗の黄檗宗のお寺である。その元祖さんは、中国の黄檗禅師というどえらい大徳であった。その方が言われた言葉に、
「佛によりて求めず、法によりて求めず、僧によりて求めず。唯だ是の如し」
というて礼拝しておられた。禅では礼拝も「唯如是」の礼拝であってこそ、ほんまの礼拝になる。「佛様どうぞ、どうぞ」という礼拝ではない。求めることのない礼拝、これがよい。おべっかを言うたり、お追従したり、ご機嫌取りの礼拝したり、土産物持参の礼拝ならば、それこそ商売根性の礼拝である。取引根性の礼拝である。念佛でもその通り、商売念佛、取引念佛になっては、もはや佛法でない。真宗は「帰命」が礼拝である。
お正月の神詣でを見ておると、お礼参りの人は少なくて、どうぞ商売が繁昌するように、本年も福をどっさりくださいませと、お祈りの柏手、無理注文の礼拝ばかりのように見受けられるが、これは一つ考えものだろうと思う。そこで私は一首の歌を詠んだ。
いのるとも しるしなきこそ しるしなれ いのるこころに まことなければ
黄檗禅師が、求めるところなく、祈るところなく、注文するところなく、取引するところなく、我利我欲を離れて礼拝されたことは、まことに見上げた純一無雑の大行である。礼拝の独立である。禅宗もここまで来ないと本当のものでない。瓦を磨いて鏡を作ろうとするようなことではあかん。
念佛もその通りで、如来に対して、求める心、祈る心、注文する心、往生と交換する心、土産物持参の心、追従の心、へつらいの心、商売根性の念佛では、真宗の念佛ではない。禅家の人は、「ただ念佛して」の味を知らぬものだから、真宗念佛をとやかく下賎の教えのように思う人があるが、親鸞聖人の念佛は、黄檗禅師の「唯だ是の如し」と同じような念佛であって、「ただ念佛して」の念佛である。
「ただ念佛して」の念佛は、形から言えば称名である。如来の御名を称えることである。ところが、この念佛は、無碍光如来をほめまつって、その無碍の佛智に相応し、大慈悲心に相応し、威神功徳不可思議力を仰ぎまつる念佛なれば、そのまま南無阿弥陀佛であり、如来様の「あらわれ」である。
如来様をほめたたえる念佛は、如来様の「おすがた」であり、「みこころ」であり、また「御身」である。全く私がない。求めるこころ、祈るこころ、取引心のない念佛である。それを「ただ念佛して」という。
故に「ただ念佛して」は、南無阿弥陀佛の独立、本願力の独立である。この「独立」が難しいのじゃ。「独立」であるから、私の往生が易いのである。
親様と初対面して、親様の名を喚んだのが、「ただ念佛して」である。その声は、まるまる親の大悲心である。声は声であって、そのまま親の大悲心である。
稲垣瑞劔師「法雷」第89号(1984年5月発行)
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