佛教は佛陀の教説であり、生死出ずべき道であり、また佛陀の悟られた法界の大真理である。生死出ずべき道は、禅定と大信心あるのみである。
禅定とは、息慮凝心して空・無我を悟り、境智冥合の域に至るをいう。大信心とは「無碍の光耀」が「無明の闇」を破するをいう。生死罪濁の凡愚は、阿弥陀如来の光明名号の外に生死出ずべき道は無い。
阿弥陀如来は大慈大悲の親様である。五濁悪世のわれらこそ、金剛の信心ばかりにて永く生死を捨てはてて、自然の浄土に到る。これまた佛智大悲の御はからいである。これを「自然法爾」という。凡夫小智の「はからい」は、皆これ妄念の圏内である。法界はただ無碍光の照耀あるのみ。大信心は無碍光の流れに乗ずるのみである。
自分が信心取った、いただいた、と「自分」が出たら皆自力。他力とは、如来の本願力に流されて、親の里に帰るのを「他力」という。
他力の中の自力、これを二十願といい、また十九願という。「どうしたら参れるか」「何ぞして参ろう」と気を遣う。早やこれ自力の泥田に落ち込んでいるのである。
「そのまま来たれ」の勅命の外に、こちらから持ち出す信心は無し。如来様は「そのまま来たれ、お浄土で待っておるぞ」とのたもう。
自力の角を振り立てておれば往生は難中の難、如来にまかせたてまつれば易中の易である。もう命はあと一分間、如来にまかせたてまつるより外に、往生極楽の道はない。
「極楽の道は一すじ南無阿弥陀、わき見をするな、考えな。」
凡夫の思いは皆自力。思案工夫をしたとても、地獄の業の外はない。地獄行きを、そのまま助くる御本願。心も言葉も絶えはてて、不可思議尊を帰命する。
信心を取ろう取ろうと幾十年。
「勢つきて 汲み上げられし 蛙かな」
佛法は難しいぞと言えば尻込みをする。易いぞと言えば、如来様まで馬鹿にする。業報まかせと言いながら、苦労せぬ人、いただけぬ。信心は苦労の枝の先に咲く。
凡夫が佛に成るほどの大事業、なめておったら皆落ちる。本願力は大きいで、落ちる衆生を、そのままで。佛智の不思議は不思議なり、大悲の不思議は不思議なり。
稲垣瑞劔師「法雷」第89号(1984年5月発行)
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