真宗において大切なことは、自分が凡夫でありながら「凡夫」ということが分からぬ。凡夫というものは、
「そらごと、たわごと、まことあることなし」(歎異抄)
「妄念の外に心はなきなり」(横川法語)
「ともに是れ凡夫のみ」(十七条憲法)
と。自分が凡夫でありながら、凡夫たることが分からぬから「自力のはからい」を出すのである。凡夫のすがたを、徹底的に解明してくださったのが「機の深信」である。
「自身は現に是れ罪悪生死の凡夫、曠劫より已来、常に没し常に流転して、出離の縁有ること無し」
と。こういう凡夫でありながら、「早く信心がいただきたい」などと思うのは、あまりに虫が良すぎるというものである。「お浄土へ参りたい」も結構であるが、脚下の地獄の猛火をどうするのか。落ちることを知らぬ者は助からぬ。「機の深信」が無ければ「法の深信」も無し。
信心は「知識」や「思い」ではない。佛力である、本願力である。凡夫のくせに、凡夫たることが分からぬような者は助からぬ。お浄土参りには、地獄行きの稽古をする方が近道である。悪は皆罪である。煩悩は皆罪である。妄念は皆罪である。
「濁世の起悪造罪は何ぞ暴風駛雨に異ならん」(道綽禅師)
と。釈迦如来は、衆生が雨風動乱のごとくあまりに激しく罪を造るので、「驚いて火宅の門に入る」と、此の世に出現あらせられたのである。
毎日毎日魚鳥や肉類を食べて少しも罪と思わぬほど人間は堕落してしまった。生きんとするための慾は皆罪である。自分の罪を忘れて「信心」という牡丹餅を取ろうとしておる。佛教徒も堕落したものだ。これが末世である。罪の自覚を百点とし、本願力を百点と仰ぎ切ったのを信心という。
佛を忘れ、凡夫を忘れ、罪の自覚の無い者は、助からぬ。「無常」と「因果」を知らぬ者は往生できない。
稲垣瑞劔師「法雷」第89号(1984年5月発行)
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