我執の色眼鏡
凡夫の正体は「我執」と「我愛」と「我慢」である。我執があると、考えることも佛の考えと違い、智慧も力も違ってくる。我執を離れて見た天地は、また格別であるが、凡夫には想像もつかぬ。
凡夫は我執の色眼鏡をかけて万物を見るから、万物の実相は分からぬ。自分のことも分からぬ。人間でありながら人間が分からぬ。
自分の心も、自分の業も分からぬ。生まれたままの凡夫で、救われていくのである。
佛智の眼
如来の本願力は、衆生往生の大道である。
この願力の大道が信ぜられると、佛智の眼をいただくから、自分のあさましいことが分かる。罪悪生死の凡夫ということが分かる。凡夫の智慧では「佛」も「法界」も「心」も「自己」も分からぬ。また業道のおそろしいことも分からぬ。
こういう不思議
信心は、自分の力で取るものではない。佛智不思議を、不思議と仰ぐものである。
佛智を信ずるのと、佛智が自分の身心に入り充つるのとは同時である。名号を信受すると、名号の功徳が我がものとなる。
こういう不思議が、佛法不思議というものである。
本願力のよびごえ
一心一向になる人が少ない。自分の生死を問題として、佛語を仰いで、一心一向にならなければ、佛智の不思議は信ぜられるものでない。
苦しみ抜いた挙げ句に、光るものは「本願力のよびごえ」である。生死の旅も、如来が旅連れになっていてくださるから、苦しいけれども、また楽しい。
絶対界の風光を仰ぐ
とかく人間は、生きておる間は相対の世界に住んでおって、相対の世界から一歩も出ることが出来ない。大信心は絶対界の風光、すなわち佛智を仰ぐこころである。
いのちと光の道
佛教は絶対の真理であるが、凡夫は容易に「空・無我」の真如三昧に入ることは出来ぬ。歴史的研究をいくらやったところで、歴史は佛法ではない。佛を信ずるいのちと光の道が、佛法であり、佛道である。
本願一実の大道
本願一実の大道は、両手広げて立ってござる如来様のすがたである。それに凡夫の方では何とか彼とか言うて、はかろうて、尻込みをしておる。
白道が動き出した
本願の白道はいつもおっぴらいておるが、なかなか渡る人がないと見える。もうもう白道が辛抱しきれなくなって、ぴりぴりこちらの方へ動き出してきた。よびごえが白道じゃ。
よびごえに打たれ切ったところが白道であり、白道に乗せられたのであり、信心である。
一乗大智願海
佛法は、大海のごときものである。入れば入るほど深く、漕ぎ出ずれば出ずるほど広い。
如来の一乗大智願海がこれだ。本願海は如来の「まこと」である。
稲垣瑞劔師「法雷」第89号(1984年5月発行)
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