三、一念一無上
「一念一無上、十念十無上、百念百無上、千念千無上」(選択集)
「選択易行の至極を顕開す」
「十声、一声、聞等に至るまで」
「ただ念佛して弥陀にたすけられまゐらすべし」
大いなる もののちからに ひかれゆく
わがあしどりの おぼつかなしや(九条武子)
行け来いの 中でわするる おのれかな(瑞劔)
「一念一無上、十念十無上、百念百無上、千念千無上」(選択集)
「選択易行の至極を顕開す」
「十声、一声、聞等に至るまで」
「ただ念佛して弥陀にたすけられまゐらすべし」
大いなる もののちからに ひかれゆく
わがあしどりの おぼつかなしや(九条武子)
行け来いの 中でわするる おのれかな(瑞劔)
三宝(佛・法・僧)信じ 業(ごう)信じ
三世の因果 信ぜよや
久遠のやみは 「無碍光」に
とうとう負けて 晴れました
晴れたすがたは 南無阿弥陀
我が往生は 南無阿弥陀
ひとりよろこぶ 佛法も
「身にもあまりて」 尽十方
ひとしくひとえに 弘めなん
如来と私の 親しみは
炭に火のつく ごとくなり
離れ離れは そら駄目じゃ
鼻に掛けぬが 佛法で
「常行大悲」が 佛法じゃ
如来のお仕事 佛法じゃ
如来のお仕事 南無阿弥陀
喚ばうて助くる 本願力
ああ忝い 「我もまた
彼の摂取の 中にあり」
佛法聞いて 身につかば
身をばはなれて 月一輪
佛智不思議に 雲霧も
はれて今宵は すがすがし
火車来現は あたりまえ
死ぬる今際の きわまでも
「うろうろもの」で ありまする
なんぼ聞いても 「あかなんだ」
凡夫の自性は 玉ねぎで
むいてもむいても 皮ばかり
わたしも佛法 九十年
もがいてみたが あかなんだ
ちょろこい聞きかた 何になる
天狗か不安か 猿まねじゃ
「うろうろもの」と 銘打って
出てくる「佛弟子」 逢いたいな
死ぬるにきまった この我は
死ぬることだけ 間違わぬ
思い・行い 善い事の
出来ぬこの身も 死ぬだけは
否でも応でも やってくる
死ぬる問題 解けたなら
「正直」「勤勉」「親切」と
「学」「徳」「信」で やりましょう
この心得が ない故に
佛法だんだん 衰える
如来は親様 「見てござる」
「護って」「待って」 ござるぞよ
露の命が 終わったら
「法性常楽」 お浄土じゃ
佛智の不思議は 不思議なり
願力自然は 不思議なり
「義なきを義とす」と 信知せよ
「ただ念佛して」の ただの味
あらおもしろや おもしろや
佛法は
耳で聞いて 眼で聞いて
心で聞いて 身で聞いて
身に佛法が つくことは
これ上上の 聞きかたか
「無常」を観じ 念じつめ
後生のことに おどろいて
透れぬ関所に ぶちあたり
「解脱の耳」を 振り立てて
聞くのでなければ 似せものか
生死のことは 大きいぞ
「大きな佛法」 南無阿弥陀
「無碍の佛智」の ひとり立ち
仰ぐこころも 南無阿弥陀
佛智即行 おもしろや
如来のお顔を 見てみれば
「心配するな」と 声がある
声が如来か 如来が声か
大悲の声に つつまれて
日ぐらし あさまし はずかしい
「信は願より生ずれば 念佛成佛 自然なり」
六字の願力 自然なり
「自然」を仰ぐも 我れならず
自然の願力 無理はない
無理があっては 落ちまする
病気貧乏 世の責め苦
無理と無精と 欲深と
我が身知らずが その本か
「道心」持って 法聞かば
この世の福寿 きわもなく
衣食はおのずと ついてくる
佛法力の 不思議にて
因果業報 あるまままに
自然の浄土に 入ることは
佛智 大悲 本願力
南無阿弥陀佛の 不思議なり
「自然」「自然」と つねに言い
はからい 語れば 逃げまする
「ことば」「説明」 そらあかん
だまっていても そらあかん
こちらに用事は ないわいな
逃げない願力 「摂取不捨」
「若不生者」の およびごえ
「南無と帰命」は およびごえ
「南無」の二字が 成就して
あるのも知らず うかうかと
まだ「はからい」や つっぱりを
探しもとむる 人あわれ
信心を 探す闇夜の盲人(めしい)かな
「願力無窮」に 眼がついて
不思議に私に しみわたり
知らずに出づる お念佛
散乱放逸 いつ見ても
願力無窮 いつ見ても
「ああ、ありがたい、忝い」
おもうも言うも おろかなり
禅では「不立文字」ということを言うが、えらい禅師は、決してお経を嫌わぬ。白隠禅師は『法華経』を読んで悟りを開かれたということである。今日でも禅者は、『法華経』や『金剛経』や『楞厳経』、『般若心経』や『観音経』『楞伽経』などを特に尊ぶのである。またたくさんの禅書も語録も公案もある...