2019年9月22日日曜日

決定心

 「ローマは一日にして成らず」という格言があるが、まことにその通りである。それにつけても御開山聖人の御苦労が偲ばれる。
 佛法を聞いて、決定心を得るほどむつかしいことはない。佛教の教義はむつかしいことはむつかしいが、それでも頭のよい人ならばかなりのところまで行ける。然しながら真宗に於いて安心決定するということは頭ではいかん。学問でもいかぬ。
 宿縁というものの、真剣になれば如何なる人でも、お慈悲が強いから、誰でも必ず決定の信は得られる。如来さまが
 「〈至心・信楽・欲生〉という極楽参りの資本はおれの方で成就しておいているから、その資本をもって、そのまま来たれ」
とよんで下されている。その大悲心のうちに、その佛智不思議のよびごえのうちに、如来の決定心がある。その如来の決定心がこちらの心に印現して、私の決定心となるのである。
 信を得たら自覚があるものか、などと問う必要はない。如来の三心勅命を忝しと仰ぎ信じているところ、即ち私の決定心であり、私の自覚である。

  南無阿弥陀 よびごえひとつ 南無阿弥陀
       よばれてかへる おやのふるさと   瑞劔

稲垣瑞劔師『法雷』第2号(1977年2月発行)

3 件のコメント:

土見誠輝 さんのコメント...

「忝し」は、かたじけなしと読むのですね。意味として⓵恐れ多い。もったいない。⓶面目ない。恥ずかしい。⓷ありがたい。もったいない。と古語辞典にありました。
ここでは、⓷の意味だと思いました。

土見誠輝 さんのコメント...

「印現」は、印をおしたようにそのまま現れる、という意味だと思いました。

光瑞寺 さんのコメント...

今ごろになってコメントして下さっていたことに気付きました。ありがとうございます、遅くなって申し訳ございません。
「忝し」も「印現」もおっしゃる通りの意味です。
よほど古風な表現は言い換えて投稿しているのですが、それでも見慣れない言葉でしたね。
風格のある原文とのバランスが難しいです。
 - 住職

死の解決㈢

 世の人は「救い」「救い」と言っておるが、「救い」とは何であるか、殆どすべての人が「救い」を知らない。死を宣告された人から見ると、五欲街道の修理は「救い」でない。  真の救いは、救う人と同じ境地に到達してこそ「救われた」と言えるのである。あるいは、救う人の境地に必ず行けるという大...