2020年1月5日日曜日

弥陀の大悲ふかければ

 凡夫が如何ほど勉強したとて、考えたとて、信じたと思うたからとて、往生できるものではない。阿弥陀如来の超世希有、不可思議悲智の本願、「南無阿弥陀佛落としはせぬぞ」と、仰せ下さるから助かるのである。
 一たびこの処に目覚めぬ限り、思想はからいの堂々めぐりばかりやっておるのである。
 嗚呼大なる哉、超世殊勝の本願、佛智大悲の親さまの真実心の底が知れぬ。この一葉、千思して可なり。
ー 稲垣瑞劔師「法雷」第6号(1977年6月発行)

3 件のコメント:

土見誠輝 さんのコメント...
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土見誠輝 さんのコメント...

「この一葉千思して可なり」は、「一葉千思」という熟語ではなく、
「この一葉」「千思して可なり」と、区切るのが良いと思いました。

「この一葉」は、たった一枚の葉のような私が、
「千思して可なり」は、千もの無限の思いを巡らしているまま、いま助かるのである。

光瑞寺 さんのコメント...

古い文体ですので所々読みにくい部分もあるかと思います、随時ご指摘下されば幸いです。

「この一葉、千思して可なり」という言い回しも、先例があるのかもしれません。寡聞にして存じませんが。
「一葉」には「一枚」という意味もございます、ご自身の綴られた短文を指す場合もあろうかと存じます。

よびごえの うちに信心 落處あり

 佛智の不思議は、本当に不思議で、凡夫などの想像も及ばぬところである。佛には佛智と大悲がとろけ合っておる。それがまた勅命とも名号ともとろけ合っておる。  佛の境界は、妄念に満ち満ちた私の心を、佛の心の鏡に映じて摂取不捨と抱き取って下された機法一体の大正覚である。もはや佛心の鏡に映...