2020年2月19日水曜日

三昧相伝

 他の宗教が真宗を攻撃して曰く、「王舎城の悲劇は歴史的事実であるが、法蔵菩薩は歴史的事実ではない」という。
 なるほど歴史的事実ではないかも知れないが、佛教には禅定がある。禅定中に歴史がある。これを「三昧相伝の歴史」という。
 弘法大師と伝教大師との関係を、弘法大師は禅定に入って、釈尊の弟子であったことを伝教大師に書き送られている。これなどが「三昧相伝の歴史」である。

 大経をお説き遊ばされた時、釈尊は弥陀三昧に入られ、阿弥陀如来と一如になって、その本願名号をお説き遊ばされたのである。
 いずれの佛でも他の佛と、禅定中において念じ合われる。これを「佛佛相念」という。華厳経は釈尊の海印三昧中の説である。高位の菩薩は、三昧中に於いて各種の佛事をせられる。これまた三昧中の活動である。 

 三昧の歴史を知っておるものは、世界歴史に関わらず、宗教の成立を談ずるのである。キリスト教などでも処女の懐胎や、十字架の処刑後昇天されたというが、それらは世界史をして取り扱うべきものでなかろう。また奇蹟なども歴史と見るべきでなかろう。神の存在については、元より歴史的のものではない。

 浄土真宗の源は、超歴史的の阿弥陀如来の大智願海である。超歴史を架空の談と言うことは出来ぬ。
 大乗佛経典に説かれてあることは、科学以上の真理である。神通の世界、禅定の世界などは、科学で割り切ることの出来ない崇高なる事実である。科学で割り切ることの出来ない事実を、佛教では「果上の世界(佛智の世界)」といい、また「不思議」という。

稲垣瑞劔師「法雷」第7号(1977年7月発行)

2020年2月10日月曜日

この無上の妙法を

 善導大師が仰せられた、「自ら信じ、人を教えて信ぜしむることは、難中の難、転た更に難し、大悲を普く伝うることは真に佛恩を報ずることに成る」と。
 自分だけ信じて、自分だけお浄土へ参ろうと思って「教人信」の無い人が多い。教人信の無い人は、大方「自信」も無い人である。
 まことの信心は必ず「教人信」となってあらわれるものである。いずれも光明のお恵みであり、本願力の然らしむるところである。それでこそ佛法がひろく、永久に伝わるのである。

 「大悲伝普化」の精神で、この超世無上の妙法を、人に伝えようと一歩踏み出すと、不思議なことには、自分の信心も増長し、同時に此の世の苦しみも、さのみ感ぜぬようになる。これが不思議の御恩である。
 苦しい苦しいと言うておれば切りのない事であるが、この苦しい娑婆を道場として、佛法を説かせてもらうと、「さてさておもしろき世なるかな」と思われてくる。
 なんびともここまで行けるから、この身分に成るまで聴聞しなければならぬ。今日から「ああ苦しい」とか「あほらしい」とか「情けない」とか云わぬことだ。九十二歳 瑞劔

稲垣瑞劔師「法雷」第7号(1977年7月発行)

よびごえの うちに信心 落處あり

 佛智の不思議は、本当に不思議で、凡夫などの想像も及ばぬところである。佛には佛智と大悲がとろけ合っておる。それがまた勅命とも名号ともとろけ合っておる。  佛の境界は、妄念に満ち満ちた私の心を、佛の心の鏡に映じて摂取不捨と抱き取って下された機法一体の大正覚である。もはや佛心の鏡に映...