青年たちは、宗教の世界においてさえも先ず割り切ってから、それからぼつぼつ信じようとする態度である。それにつられて教導者も、先ず青年たちに割り切れるような話をする傾向が強く表れてきたように思われる。これは考えものである。
割り切るということは、佛陀に対する信頼依憑の宗教感情を育成し、培養するといった方向ではなくて、むしろ、科学的・哲学的の方向である。学の世界においては、一事を割り切って、それで止まるものではない。一つの疑問の奥には次の、より大なる疑問が待ち構えておるのである。
宗教はもとより真理性がなければならぬが、佛教の真理性は、実証、あるいは修道、あるいは信仰を離れて存在する単なる知性ではない。
青年を誘導するならば、むしろ芸術の世界から入り、倫理の世界から入って、論理の世界を後回しにする方がよくはないか。少なくとも善と美の世界に重点を置く方がよいと思う。
稲垣瑞劔師「法雷」1977年10月発行
2 件のコメント:
宗教心とは何かと考え直しました。
佛教を学問と思って学ぶより、自らの心(魂)のよりどころを探すものだと思いました。
佛学はおもしろいものですが、知的満足に止まるべきではありません。
感情の上においても満足し、倫理的にも踏み外さないものを与えてこそ、真実の利益と呼べるのでしょう。
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