2020年6月14日日曜日

最高の宗教

 他の宗教では「救われた」と言うが、少しばかりのこの世の幸福が、一時得られたら早や「救われた」と言う。本当の救いは、真宗のように、信心歓喜して正定聚に住し、往生して「法性常楽」を証し、還相する身分にしてもらったのが、ほんとうに救われたのである。

 悪いことばかり教えておる宗教は一つもない。どの宗教も善いことを教えておるが、「迷悟染浄の因縁」(転迷開悟、苦・集・滅・道)を教えておる宗教は、佛教を除いては他に一つもない。
 たとい天国に生まれたとて、自分の上にまだ神様がおられるといったことでは、「無我」にもなれず、「無分別智」も得られず、苦楽混合の身分なるが故に、真の救済とは言われない。
 また大智大悲が身に付かぬから、最高善に到達したとは言われない。ゆえに他の宗教の救いは、まだ迷妄の途中にあると言わねばならぬ。

 最高の宗教は、人間が究極のところ「無我」と「無分別智」とを得て、大智と大悲の活動を、佛と同様に活動する人間最高の理想に到達する宗教が、最高の宗教である。

稲垣瑞劔師「法雷」第10号(1977年10月発行)

3 件のコメント:

土見誠輝 さんのコメント...
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土見誠輝 さんのコメント...

「無我」は、三法印のひとつの「諸法無我」で、

非我説、無我説、とあるようですが、
「我でない」「我がない」の「で」と「が」の違いだけで、数日考えに耽ってしまいました。

光瑞寺 さんのコメント...

教理的には、
①「諸法は我に非ず」… あらゆるものは固定的で不変の自性(我)から成り立っているのではない。
②「諸法には我が無い」… 宇宙を統率したり個人を支配する絶対的な主体(我)など存在しない。
と説明されるようですが。

そもそも、古代インドの知性が深い洞察によって見出したのが「我」という概念です。
その「我」を中心とした世界観・解脱観の、さらに上をいくのが「諸法無我」という佛陀の智慧ということになるのでしょうね。

和讃と歎異抄の味わい⑹

 四、死と組み打ちして  「語中に語無し」じゃ。「ただ念佛して」とあるからといって、本願のいわれも聞き開くこともなく、ただ口に念佛ばかり称えては、その人の往生は果たしてどうであろうか。  ある人はただ念佛して直ぐ如来の大悲心を感得し、めでたく往生する人もあろうが、またある人は念佛...