佛法を聞くのには、「不惜身命」と言われてあるが、この世の苦労と心配事が常に佛法に精進する心を鈍らすものである。然しながら、その人間苦の中から、大悲のみ親の「我れ能く汝を護らん」という力強い声を聞くことは、慶びの中の慶びである。
常に「盛者必衰、会者定離」と覚悟を決めておることが大切である。とかくこの世は苦が多過ぎる。また余りに強烈である。一生の勤苦は須臾の間である。
南無阿弥陀佛 九十三歳
稲垣瑞劔師「法雷」第17号(1978年5月発行)
佛法を聞くのには、「不惜身命」と言われてあるが、この世の苦労と心配事が常に佛法に精進する心を鈍らすものである。然しながら、その人間苦の中から、大悲のみ親の「我れ能く汝を護らん」という力強い声を聞くことは、慶びの中の慶びである。
常に「盛者必衰、会者定離」と覚悟を決めておることが大切である。とかくこの世は苦が多過ぎる。また余りに強烈である。一生の勤苦は須臾の間である。
南無阿弥陀佛 九十三歳
稲垣瑞劔師「法雷」第17号(1978年5月発行)
「南無阿弥陀佛 落としはせぬぞ、助くるぞ。唯だ助くるぞ、おれにまかしてくれ、おれに助けさせてくれ」
ただ助けて下さる。
ただ助けるぞと仰せ下さる。
ただよんで
ただ南無阿弥陀佛のよびごえひとつで
ただ如来の誓願力ひとつで
ただ如来の無碍の光明ひとつで
ただ如来の大慈悲力ひとつで
ただ如来の摂取衆生力ひとつでお助け下さるのである。
落ちる私を親様なればこそよんで必ず助けて下さる。
弥陀弘誓の船のみぞ、のせてかならず、わたしける。
稲垣瑞劔師「法雷」第16号(1978年4月発行)
私は「ただ念佛して」を拝して、そのこころを歌に詠んだ。 念佛のうた 佛法は 耳で聞いて 眼で聞いて 心で聞いて 身で聞いて 身に佛法が つくことは これ上上の 聞きかたか 「無常」を観じ 念じつめ 後生のことに おどろいて 透れぬ関所に ぶちあたり 「解脱の耳」を 振り立て...