- この世の利益幸福を求めて神信心する人は皆迷信である。生死を離れる道を求めて聴聞する人は、やがて信心歓喜の暁に出られるであろう。凡夫の思いが何になる、自分が知ったとてそれが何になる。自分の心をせせって佛様を見ぬ、あかんあかん。
- 信心いただいたと思うたことも幾千べん、つぶれたことも幾千べん。幾たびか思い返して変わるらん、頼みがたきは我がこころかな。念佛でも信心でも、何ぞして参ろうと思う心は皆自力、何にも出来ぬおろかものと思われぬか。往生は如来さまのおはからいである。
- 佛法は耳で聞くか身で聞くか、心で聞くか我れが聞くか、永々の光明のお育てによりて聞かせてもらうのである。
- 三十年聴聞するよりも、三十年かかって信心のある良き師匠を探せ。師匠の一言、山よりも重く、千金よりも尊し。
- 尽十方無碍光如来様様は、我らがための真実功徳のかたまりである。始めて我らが信じて参るのではない。無碍光如来に帰命するところ、これすなわちまことの信心である。
- 先生も不親切、同行も不熱心、これでは佛法はだんだん衰えるばかりである。
- 聖人の大人格を仰ぎ、佛陀の前に恭敬の頭を垂るるとき、求むるもの皆満足す。これが始めの終わりなり。
- 大道を 歩むすがた(聖人)を ながむれば 心配もなし 安心もなし
稲垣瑞劔師「法雷」第16号(1978年4月発行)
2 件のコメント:
上から2番目の
「念佛でも信心でも、何ぞして参ろうと思う心は皆自力、何にも出来ぬおろかものと思われぬか。」を取り上げます。
正信偈の「邪見憍慢悪衆生 信楽受持甚以難」の言葉であると思いました。
阿弥陀様から助からんものだと、聞かせていただく大悲の言葉です。
愚かを愚かとも知らぬほどの愚か者、けれど阿弥陀さまからお聞かせいただいたら、間違いなし。
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