2020年11月18日水曜日

「よびごえ」は如来の御いのち

 助けて下さるのは阿弥陀さま、助けられるのは私、助ける方法は「よびごえ」一つ、よんで助けようと思し召すのである。
 よんで助けるより他に助ける道がない。ようまあ、よんで下さったことよと忝く思う。それが信心である。
 忝く思えば、ひとりでに、お念佛があらわれて下さる。それが佛恩報謝の念佛である。 

 「よびごえ」を軽く見るところから大怪我をするのである。
 「よびごえ」は大智慧と大慈悲とがこもった絶対価値の「よびごえ」である。
 「よびごえ」のうちにはまた親の「まこと」の全体がこもっている。それゆえに「よびごえ」を本願招喚の勅命という。勅命に信順する以外に凡夫の助かる道がない。

 勅命は絶対価値の「よびごえ」なるがゆえに、人間の善悪を超えておる。悪にも妨げられず、善にも助けられない、独立のはたらきである。
 「よびごえ」は如来の全身であり、如来のいのちである。

稲垣瑞劔師「法雷」第18号(1978年6月発行)

2 件のコメント:

土見誠輝 さんのコメント...

「よびごえ」は、私は漢字で書く時には、いつの頃からか
「喚び声」と書くようにしています。
南無阿弥陀佛と、名となり、声となって、喚び続けておられます。

光瑞寺 さんのコメント...

「呼」は遠くからよぶ、「喚」はすぐ傍からよびかける、私を片時も離れず「喚んで」下さる阿弥陀さまである、とお聞かせいただいたことがあります。

瑞劔師は特に使い分けをされていないようで、「法雷」誌も師の原稿を忠実に編集するという方針のようです。

よびごえの うちに信心 落處あり

 佛智の不思議は、本当に不思議で、凡夫などの想像も及ばぬところである。佛には佛智と大悲がとろけ合っておる。それがまた勅命とも名号ともとろけ合っておる。  佛の境界は、妄念に満ち満ちた私の心を、佛の心の鏡に映じて摂取不捨と抱き取って下された機法一体の大正覚である。もはや佛心の鏡に映...