助けて下さるのは阿弥陀さま、助けられるのは私、助ける方法は「よびごえ」一つ、よんで助けようと思し召すのである。
よんで助けるより他に助ける道がない。ようまあ、よんで下さったことよと忝く思う。それが信心である。
忝く思えば、ひとりでに、お念佛があらわれて下さる。それが佛恩報謝の念佛である。
「よびごえ」を軽く見るところから大怪我をするのである。
「よびごえ」は大智慧と大慈悲とがこもった絶対価値の「よびごえ」である。
「よびごえ」のうちにはまた親の「まこと」の全体がこもっている。それゆえに「よびごえ」を本願招喚の勅命という。勅命に信順する以外に凡夫の助かる道がない。
勅命は絶対価値の「よびごえ」なるがゆえに、人間の善悪を超えておる。悪にも妨げられず、善にも助けられない、独立のはたらきである。
「よびごえ」は如来の全身であり、如来のいのちである。
稲垣瑞劔師「法雷」第18号(1978年6月発行)
2 件のコメント:
「よびごえ」は、私は漢字で書く時には、いつの頃からか
「喚び声」と書くようにしています。
南無阿弥陀佛と、名となり、声となって、喚び続けておられます。
「呼」は遠くからよぶ、「喚」はすぐ傍からよびかける、私を片時も離れず「喚んで」下さる阿弥陀さまである、とお聞かせいただいたことがあります。
瑞劔師は特に使い分けをされていないようで、「法雷」誌も師の原稿を忠実に編集するという方針のようです。
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