2020年12月31日木曜日

おほよそ大信海を按ずれば

 大信海は不可思議、不可称、不可説の信楽である。
 「信は願より生ずれば 念佛成佛自然なり」とあるにて知られるごとく、大信海は如来の誓願海である。凡夫自力の行に非ず、善に非ず、また聖道門でいう有念とか無念とかいうものではない。もとより凡夫の認識思惟を超え、凡夫の一切の行為を超えたものである。

 しかも凡夫は一毫の自力の労作を付加することなく、持ち出すことなく、向上も向下もなく、今のこのままにて、願力自然にはからわれて易く往生するのである。すなわち「佛の因縁法」に同化し、同調し、押し流されて往生するのである。
 「佛の因縁法」とは如来の大願業力である。
  九十三才 瑞劔

稲垣瑞劔師「法雷」第19号(1978年7月発行)

2020年12月22日火曜日

法悦(二)

  • 大道を 歩むすがたを ながむれば
     心配もなし 安心もなし

  • よき人の 仰せ蒙る そのままに
     いただくことが 極楽の道

  • 尊しや 世尊に代わる 祖師聖人
     佛とおもい 仰ぎ信ぜよ

  • 西東 知らねど 祖師に 導かれ

  • 大方の 人は賢く なりたがる
     智恵も用なく 愚かも用なし

  • これほどに 易き往生 知らずして
     智恵が邪魔して はからいをする

  • 信心を とろうとろうの 夢さめて
     助けなおかぬ お慈悲よろこぶ

  • よしあしも 思いも信も わすれはて
     仰げばそらに 澄める月かげ

  • 云えばはからい 云わねば知れず
     下戸にわからぬ 酒の味

  • 佛法は 知ったおぼえた 飛び越えて
     大願業力に引かれ
     引かれて 西の彼の岸

稲垣瑞劔師「法雷」第18号(1978年6月発行)

2020年12月16日水曜日

法悦(一)

  • やれうれし 今朝もまた
    お慈悲はありあり眼の前に
    お立ちあそばす如来さま
    お顔(本願力)のうちに生死を離る。
    我も亦 彼の摂取の中に在り
    ともに参ろう 法の友。
  • 聞くままに
    ただ聞くままに お慈悲よと
    たのむなりけり 弥陀のよびごえ
  • すやすやと 親に抱かれた あの赤児
    落ちる落ちぬの 心配もなし

  • 今は早や こころにかかる雲もなし
    見られ知られて 参る極楽

  • 南無阿弥陀佛は如来のいのち
    通い来たりて私しのいのち
    親と子供がひとつのいのち
    ひとつの息がお念佛

  • 朝な夕な 南無阿弥陀佛の生き佛様が
    耳から口から出入りして下さっている。

  • 私が如来さまのお腹の中に
    宿ったすがたが南無阿弥陀佛である。

  • 凡夫というものは
    箸にも棒にもかからぬものである。
    「親様なればこそ」

  • 「心配するな」と
    よんで下さっている如来様の
    生の声が南無阿弥陀佛である。

  • 「南無阿弥陀佛 落としはせぬぞ」と
    ようまあ御本願を建てて下さったことよ。 

稲垣瑞劔師「法雷」第18号(1978年6月発行)

2020年12月8日火曜日

「よびごえ」は親心、み親の全身である

 「よびごえ」はどこにあるか、どこに響いておるか。
 帰命尽十方無碍光如来を憶念させていただくとき、そこに響いておる。
 如来さまは尽十方無碍光如来なるが故に、どこにもござる。常に無碍の光明を放って、生死即涅槃ならしめたもうはたらきを聞かせて下さっている。

 おれの方に生死即涅槃ならしめるはたらきがあり、力があり、光明があるから心配するな

と如来さまの全身が、そう仰せられている。これすなわち「よびごえ」である。


 南無阿弥陀佛というも、「よびごえ」というも、本願力というも、皆これ親さまの大慈悲心であり、大慈悲力である。

  み佛の お慈悲ひとつで たすかるを
   おもうもいうも おろかなりけり(瑞劔)

 如来さまの大慈悲心にふれさせていただいたのを見佛という。これすなわち聞見である。聞いたのが見たことである。この世から如来様に遇わせていただいた幸せは何物にも比べようがない。

稲垣瑞劔師「法雷」第18号(1978年6月発行)

よびごえの うちに信心 落處あり

 佛智の不思議は、本当に不思議で、凡夫などの想像も及ばぬところである。佛には佛智と大悲がとろけ合っておる。それがまた勅命とも名号ともとろけ合っておる。  佛の境界は、妄念に満ち満ちた私の心を、佛の心の鏡に映じて摂取不捨と抱き取って下された機法一体の大正覚である。もはや佛心の鏡に映...