2020年12月16日水曜日

法悦(一)

  • やれうれし 今朝もまた
    お慈悲はありあり眼の前に
    お立ちあそばす如来さま
    お顔(本願力)のうちに生死を離る。
    我も亦 彼の摂取の中に在り
    ともに参ろう 法の友。
  • 聞くままに
    ただ聞くままに お慈悲よと
    たのむなりけり 弥陀のよびごえ
  • すやすやと 親に抱かれた あの赤児
    落ちる落ちぬの 心配もなし

  • 今は早や こころにかかる雲もなし
    見られ知られて 参る極楽

  • 南無阿弥陀佛は如来のいのち
    通い来たりて私しのいのち
    親と子供がひとつのいのち
    ひとつの息がお念佛

  • 朝な夕な 南無阿弥陀佛の生き佛様が
    耳から口から出入りして下さっている。

  • 私が如来さまのお腹の中に
    宿ったすがたが南無阿弥陀佛である。

  • 凡夫というものは
    箸にも棒にもかからぬものである。
    「親様なればこそ」

  • 「心配するな」と
    よんで下さっている如来様の
    生の声が南無阿弥陀佛である。

  • 「南無阿弥陀佛 落としはせぬぞ」と
    ようまあ御本願を建てて下さったことよ。 

稲垣瑞劔師「法雷」第18号(1978年6月発行)

2 件のコメント:

土見誠輝 さんのコメント...

法悦です。
南無阿弥陀佛南無阿弥陀佛
いずれも南無阿弥陀佛

南無阿弥陀佛は如来のいのち
通い来たりて私しのいのち

不可分不可同です。

光瑞寺 さんのコメント...

有り難うございます。
お念佛よろこぶそのおすがたに、こちらもうれしくなります。

よびごえの うちに信心 落處あり

 佛智の不思議は、本当に不思議で、凡夫などの想像も及ばぬところである。佛には佛智と大悲がとろけ合っておる。それがまた勅命とも名号ともとろけ合っておる。  佛の境界は、妄念に満ち満ちた私の心を、佛の心の鏡に映じて摂取不捨と抱き取って下された機法一体の大正覚である。もはや佛心の鏡に映...