稲垣瑞劔師(明治18年~昭和56年)のお言葉を通して阿弥陀さまのお慈悲を味わってまいります
「洞然として」は、聞きなれない言葉だったので意味を調べてみたところ、はげしく燃える様子ということでした。往生要集の第一厭離浄土にありました。「…独り黄泉の底に入る時、多百踰繕那の洞然たる猛火のなかに堕ちて、…」
源信和尚にせよ瑞劔師にせよ、罪悪の焔が激しく身を焼くさまを、どこかに感じておられたのではないでしょうか。白隠禅師は幼少の頃、寺で聞いた地獄の話をひどく恐がり、火をくべた風呂を見ても地獄の釜を連想して泣いたと言います。
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佛智の不思議は、本当に不思議で、凡夫などの想像も及ばぬところである。佛には佛智と大悲がとろけ合っておる。それがまた勅命とも名号ともとろけ合っておる。 佛の境界は、妄念に満ち満ちた私の心を、佛の心の鏡に映じて摂取不捨と抱き取って下された機法一体の大正覚である。もはや佛心の鏡に映...
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「洞然として」は、聞きなれない言葉だったので意味を調べてみたところ、
はげしく燃える様子ということでした。
往生要集の第一厭離浄土にありました。
「…独り黄泉の底に入る時、多百踰繕那の洞然たる猛火のなかに堕ちて、…」
源信和尚にせよ瑞劔師にせよ、罪悪の焔が激しく身を焼くさまを、どこかに感じておられたのではないでしょうか。
白隠禅師は幼少の頃、寺で聞いた地獄の話をひどく恐がり、火をくべた風呂を見ても地獄の釜を連想して泣いたと言います。
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