日本の教育がこれほど普及しておる今日、僧俗共にお聖教を読む人が少ない。お聖教を読まぬと人間の心がますます枯渇する。邪見がますます募る。
お聖教を拝読すると、不思議なもので、文字から光明を放っておると見えて、何とはなしに霊感がある。これが信者の無体験の体験というべきものであろう。本願力の然らしむるところである。
瑞劔は「誓願不思議を不思議と信じさせていただく」という。
不思議とは僧肇の曰く
「不思議とは、その然る所以を知らずして然るものは不思議なり」
と。
聖人の曰く
「いつつの不思議をとくなかに
佛法不思議にしくぞなき
佛法不思議といふことは
弥陀の弘誓になづけたり」
「三世の諸の如来の出世の正しき本意、
唯だ阿弥陀の不可思議の願を説かんとなり」
と。また歎異抄には「誓願不思議」とあり、信巻には大信心を釈して「不可思議・不可称・不可説の信楽なり」と申されてある。
不思議を不思議と信ずるということは、凡夫思慮の及ぶところではない。森羅万象は一色一香と雖も凡慮の及ぶところに非ず、佛様が悟られた般若真空の世界はまた百非を絶して不可思議である。
佛智に即した大慈悲の本願力は、唯だ仰せのままに「不思議なことよ」「忝いことよ」と如来さまにまかせたてまつるべきである。信心は取るのでなくて、仰ぐ世界である。
佛法を五年や三年聞きかじって、信心を取ろうと思うのはよろしくない。信心を取ろうとせずに、佛とは何ぞ、佛心とは何ぞ、本願とは何ぞ、と根本から聞くとよい。
お聖教は如来の全身である。拝読すると生ける如来の光明に触れることが出来る。そこで不思議を不思議と信ずることが出来るのである。光明が光明を仰がせてくれる。
如来の光明は如来の智慧である。智慧には慈悲が裏付けられてある。如来の智慧のあらわれが南無阿弥陀佛である。どちらも一つもので生命がある。聖人は力を込めて仰せられた。
「無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり」
と。
「無碍の光明」には、また「難思の弘誓」というて如来の本願力が添うておる。衆生の悪業煩悩が亡ぼされて、信心を獲得するのは全く如来の光明・名号のはたらきである。
聖人は仰せられる。「本願なるが故に助かるのである。本願力なるが故に往生するのである。光明によりて無明の闇が破せられるのである。名号の德によりて信心を得るのである」と。
稲垣瑞劔師「法雷」第26号(1979年2月発行)