2021年4月30日金曜日

讃嘆の 念佛称える 身に仕立て 迎え取るのが 念佛往生(1)

 とかく自分の方に眼がついて、如来さまの方には眼がつかぬものである。

 如来さまの佛智も忘れ、大悲も忘れ、本願も忘れ、本願力も忘れ、威神功徳不可思議力の名号も忘れて、自分だけが信心をいただいて参ろうと思うておる。
 その様な態度では、如来さまの御恩も知れず、如来さまを讃嘆することも出来ぬ。

 如来さまを讃嘆する身にしていただいたのを、信心獲得というのである。

 口先ばかりどんなに上手に話しても、心の底から如来さまを讃嘆し、讃嘆の上から憶念称名するのでなければ、信心とは言われない。

稲垣瑞劔師「法雷」第29号(1979年5月発行)

2021年4月24日土曜日

教行信証拝読記(22)

  • 恩師 桂利劔先生は、宗教の勉強中に眠気が催しては勉強ができぬと申されて、蕎麦の粉を一日に一杯ずつ食べて、二年間それを続けられた。
    東陽円月という学者は、二階に上がって二年間、下に降りてこられなかった。
    天台宗の碩学 宝池房証真師は、洞窟の中に入って勉強に耽り、京都に居ながら源平の乱を知らなかったということである。

  • 桂先生は、六十余歳の御時、『教行信証』の真髄、法雷学派の真精神を、原稿用紙に綴って四十四巻お書きになった。瑞劔は六ヶ年を費やして原稿を整理して、いよいよ出版に取りかかった。時に昭和十九年、米国の爆弾は毎日のように雨下した。
    先生は昭和十九年四月二十七日、自坊 滋賀県能登川町今の光台寺に於て御往生された。「法雷院利劔師」と号した。
    原稿は、先生の滅後 昭和三十三年三月十五日に京都の百華苑より『教行信証大系』の名の下に出版した。無上甚深の宝典である。

  • 世の中の人は、誰も彼も皆苦しい苦しいといっておる。
    一たび「自信教人信」と踏み出すと、不思議なことには、こういう苦しい娑婆であればこそ佛法が説ける、と苦しみの中から希望が湧き出で、この娑婆が大法弘宣の道場と化する。
稲垣瑞劔師「法雷」第28号(1979年4月発行) 

2021年4月18日日曜日

飽きることなき真の味

  • 信心正因ということは皆聞いて知っておるが、その信心とは二種深信のことである。故に二種深信が往生の正因である。
    これを忘れないで、二種深信に重きを置いて、しっかり聴聞するがよい。何十年二種深信の話を聞いても、聞き飽きたということはない。
  • 御文章に「弥陀たのむ」とある。弥陀たのむとは「信機」と「信法」のことである。
  • 二種深信に徹底した人は、「善もほしからず、悪もおそれなし」となる。こんな不思議な、最高の宗教経験は浄土真宗のみである。
  • 信心を頂いたらどんな気持ちになれますか、宗教体験を話して下さいという人がある。体験といったとて、どうしても助からぬ凡夫であると、機の深信に徹底するまでのことである。機の深信に徹底すると、不思議に如来親様がニューとあらわれて下さる。
    他の宗教では、神を見たとか、神の声を聞いたとか、こういう不思議なことがあったとか、いろいろと体験話をするが、そんなものは妄想か錯覚である。
    自分は底下の凡夫で、どうしても助からぬ、「とても地獄は一定すみかぞかし」となったのが体験といえば体験である。体験に助けられるのでないから、体験話は聞いてもよし、聞かなくてもよし。
  • 今日真宗の信徒の病気は、「今死んだらどうなるか」の問題を抜きにして、信心を得よう得ようにかかり果てておるか、法門の教義を知ることが真宗のごとく思っておる。それが病気である。
    一生涯「二種深信」だけに心を寄せると、真宗の真味が味わえるであろう。
稲垣瑞劔師「法雷」第28号(1979年4月発行)

2021年4月12日月曜日

落ち切れば 浮かぶ時なり

 罪悪感といっても、浅いのと深いのと色々ある。機の深信のような深い罪悪感は他の宗教には絶対に見られない。

 新約聖書に「心の浄きものは幸いなり、その人は神を見ることが出来る」と書いてあるが、凡夫の心を百億万年磨いたところで、「愛憎」と「我執」が捨たらぬ。「我執」と「愛憎」が捨たらない限り「心が浄くなった」とは言われない。
 戒定慧の三学、六波羅蜜の修行を、今日の凡夫が千億万年修行したところで、心は浄くならない。それなのに「心の浄きものは幸いなり」などと、そんな人があるかの如く言うておることが、そもそも浅い罪悪感だと言わなければならぬ。機の深信の罪悪感とは千万里の距たりがある。

 親鸞聖人が仰せられた。
「とても地獄は一定すみかぞかし」と。
 善導大師が申された。
「出離の縁あることなし」と。
 これが落ち切ったすがたである。ここまで落ち切らぬことには信心でない。

 何億万年自力の修行をしたところで、「出離の縁あることなし」とならぬかぎり、機の深信ではない。御安心の上で「我れ善を為せり」といったように自分の善が眼につくようなことでは、機の深信までまだ千万里である。
 「我れ善を為せり」と思う心は、聖道門で言えば、皆悪である。これ位のことが分からぬ人には、機の深信はあり得ない。もっともっと深く自己を反省してみる必要がある。

 親鸞聖人が歎異抄に「善悪の二字総じてもて存知せざるなり」と申されたのは、「凡夫の善は皆悪じゃ」ということである。

稲垣瑞劔師「法雷」第27号(1979年3月発行)

2021年4月6日火曜日

他に道なし

 佛法力不思議ということは、どこにあるか。本願力不思議が佛法不思議であると、口では言うておるが、その不思議をしみじみと身に体験しておるのかどうか。
 「とても地獄は一定すみかぞかし」に徹底してみると、不思議なことに、地獄必定から、願力摂取も、光明摂取も生まれてくる。これは体験である。不思議なことじゃ。これを「不思議を不思議と信ずる」というのである。

 助かる道を見つけて助かるのでない。どうしても助からぬ、助かる道は絶対に無いということが分かった時、初めて助かる道が見える。他に道があるのでない、どうしても助からぬということが、助かる道である。それが不思議である。この不思議は誰でも体験が出来る。要は「どうしても助からぬ」の一点である。

 「どうしても助からぬ」ということは、少しの掛け値もない。久遠劫来の事実である。思うても思わなくても、知っても知らなくても、凡夫はどうしても助からぬ、それに徹底すると、不思議なことには、助からぬことが、助かる道と合一する。これがほんとうの不思議である。

 勢尽きて 汲み上げられし 蛙かな

稲垣瑞劔師「法雷」第26号(1979年2月発行)

よびごえの うちに信心 落處あり

 佛智の不思議は、本当に不思議で、凡夫などの想像も及ばぬところである。佛には佛智と大悲がとろけ合っておる。それがまた勅命とも名号ともとろけ合っておる。  佛の境界は、妄念に満ち満ちた私の心を、佛の心の鏡に映じて摂取不捨と抱き取って下された機法一体の大正覚である。もはや佛心の鏡に映...