罪悪感といっても、浅いのと深いのと色々ある。機の深信のような深い罪悪感は他の宗教には絶対に見られない。
新約聖書に「心の浄きものは幸いなり、その人は神を見ることが出来る」と書いてあるが、凡夫の心を百億万年磨いたところで、「愛憎」と「我執」が捨たらぬ。「我執」と「愛憎」が捨たらない限り「心が浄くなった」とは言われない。
戒定慧の三学、六波羅蜜の修行を、今日の凡夫が千億万年修行したところで、心は浄くならない。それなのに「心の浄きものは幸いなり」などと、そんな人があるかの如く言うておることが、そもそも浅い罪悪感だと言わなければならぬ。機の深信の罪悪感とは千万里の距たりがある。
親鸞聖人が仰せられた。
「とても地獄は一定すみかぞかし」と。
善導大師が申された。
「出離の縁あることなし」と。
これが落ち切ったすがたである。ここまで落ち切らぬことには信心でない。
何億万年自力の修行をしたところで、「出離の縁あることなし」とならぬかぎり、機の深信ではない。御安心の上で「我れ善を為せり」といったように自分の善が眼につくようなことでは、機の深信までまだ千万里である。
「我れ善を為せり」と思う心は、聖道門で言えば、皆悪である。これ位のことが分からぬ人には、機の深信はあり得ない。もっともっと深く自己を反省してみる必要がある。
親鸞聖人が歎異抄に「善悪の二字総じてもて存知せざるなり」と申されたのは、「凡夫の善は皆悪じゃ」ということである。
稲垣瑞劔師「法雷」第27号(1979年3月発行)