とかく自分の方に眼がついて、如来さまの方には眼がつかぬものである。
如来さまの佛智も忘れ、大悲も忘れ、本願も忘れ、本願力も忘れ、威神功徳不可思議力の名号も忘れて、自分だけが信心をいただいて参ろうと思うておる。
その様な態度では、如来さまの御恩も知れず、如来さまを讃嘆することも出来ぬ。
如来さまを讃嘆する身にしていただいたのを、信心獲得というのである。
口先ばかりどんなに上手に話しても、心の底から如来さまを讃嘆し、讃嘆の上から憶念称名するのでなければ、信心とは言われない。
稲垣瑞劔師「法雷」第29号(1979年5月発行)
2 件のコメント:
とかく自分の方に眼がついて、如来さまの方には眼がつかぬものである。
とありますが、これが分かれば信決定です。
どこどこまでも自分の心の裡をみるのが私たちです。
喚んで喚んで喚びづめの、大悲の御親のご苦労が偲ばれます。
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