2021年4月30日金曜日

讃嘆の 念佛称える 身に仕立て 迎え取るのが 念佛往生(1)

 とかく自分の方に眼がついて、如来さまの方には眼がつかぬものである。

 如来さまの佛智も忘れ、大悲も忘れ、本願も忘れ、本願力も忘れ、威神功徳不可思議力の名号も忘れて、自分だけが信心をいただいて参ろうと思うておる。
 その様な態度では、如来さまの御恩も知れず、如来さまを讃嘆することも出来ぬ。

 如来さまを讃嘆する身にしていただいたのを、信心獲得というのである。

 口先ばかりどんなに上手に話しても、心の底から如来さまを讃嘆し、讃嘆の上から憶念称名するのでなければ、信心とは言われない。

稲垣瑞劔師「法雷」第29号(1979年5月発行)

2 件のコメント:

土見誠輝 さんのコメント...

とかく自分の方に眼がついて、如来さまの方には眼がつかぬものである。

とありますが、これが分かれば信決定です。
どこどこまでも自分の心の裡をみるのが私たちです。

光瑞寺 さんのコメント...

喚んで喚んで喚びづめの、大悲の御親のご苦労が偲ばれます。

よびごえの うちに信心 落處あり

 佛智の不思議は、本当に不思議で、凡夫などの想像も及ばぬところである。佛には佛智と大悲がとろけ合っておる。それがまた勅命とも名号ともとろけ合っておる。  佛の境界は、妄念に満ち満ちた私の心を、佛の心の鏡に映じて摂取不捨と抱き取って下された機法一体の大正覚である。もはや佛心の鏡に映...