浄土真宗の佛性(ぶっしょう)論はなかなかむつかしい。
南無阿弥陀佛(大行)は往生の真因なるが故に、これを「大行佛性」という。
また大信心は往生の正因なるが故に、これを「信心佛性」という。
如来の大慈大悲は一切衆生をして往生成佛せしむる力なるが故に、大慈大悲はまた佛性である。
また如来様そのものが親様であり、親あるが故に子供(衆生)は育ち、成佛することが出来る。故に佛性はすなわちこれ如来である。
また如来と涅槃とは不二であるから、涅槃は佛性である。
また衆生は如来の本願に乗じて佛に成るのであるから、本願は佛性である。
また如来の真実によりて救われるのであるから、真実は佛性である。
「若不生者 不取正覚」と聞いて信心を発起するところに、生ける佛性がある。
稲垣瑞劔師「法雷」第32号(1979年8月発行)
3 件のコメント:
『浄土和讃』(94)より、
信心よろこぶそのひとを
如来とひとしとときたまふ
大信心は仏性なり
仏性すなはち如来なり
と教えていただいております。
『浄土和讃』(93)には、
如来すなはち涅槃なり
涅槃を仏性となづけたり
凡地にしてはさとられず
安養にいたりて証すべし
と教えていただいております。
宗祖聖人は『涅槃経』の佛性論を信巻と真佛土巻に引用されています。
これらに説くところの佛性は難解ですが、こうして和讃にしてくださることで要点が窺えます。
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