2021年7月24日土曜日

安養にいたりて証すべし

 浄土真宗の佛性(ぶっしょう)論はなかなかむつかしい。

 南無阿弥陀佛(大行)は往生の真因なるが故に、これを「大行佛性」という。

 また大信心は往生の正因なるが故に、これを「信心佛性」という。

 如来の大慈大悲は一切衆生をして往生成佛せしむる力なるが故に、大慈大悲はまた佛性である。

 また如来様そのものが親様であり、親あるが故に子供(衆生)は育ち、成佛することが出来る。故に佛性はすなわちこれ如来である。

 また如来と涅槃とは不二であるから、涅槃は佛性である。

 また衆生は如来の本願に乗じて佛に成るのであるから、本願は佛性である。

 また如来の真実によりて救われるのであるから、真実は佛性である。

「若不生者 不取正覚」と聞いて信心を発起するところに、生ける佛性がある。

稲垣瑞劔師「法雷」第32号(1979年8月発行)

3 件のコメント:

土見誠輝 さんのコメント...

『浄土和讃』(94)より、
信心よろこぶそのひとを
如来とひとしとときたまふ
大信心は仏性なり
仏性すなはち如来なり
と教えていただいております。

土見誠輝 さんのコメント...

『浄土和讃』(93)には、
如来すなはち涅槃なり
涅槃を仏性となづけたり
凡地にしてはさとられず
安養にいたりて証すべし

と教えていただいております。

光瑞寺 さんのコメント...

宗祖聖人は『涅槃経』の佛性論を信巻と真佛土巻に引用されています。
これらに説くところの佛性は難解ですが、こうして和讃にしてくださることで要点が窺えます。

よびごえの うちに信心 落處あり

 佛智の不思議は、本当に不思議で、凡夫などの想像も及ばぬところである。佛には佛智と大悲がとろけ合っておる。それがまた勅命とも名号ともとろけ合っておる。  佛の境界は、妄念に満ち満ちた私の心を、佛の心の鏡に映じて摂取不捨と抱き取って下された機法一体の大正覚である。もはや佛心の鏡に映...