2022年9月25日日曜日

親様

 阿弥陀如来が「親様」である、ということが分からぬうちは、佛法はむつかしい、むつかしい。実に極難信である。
 しかるに一たび「親様」が分かってみれば、心配することもなく、心配も安心も、どこへやら飛んでしまって、「佛法はこんな易いものであったのか」と、聞いたことも信じたことも、何もかも忘れて、「親様」が何となく、なつかしくなるものだ。
 本願力も、南無阿弥陀佛も、およびごえも、信心も、皆「親様」という言葉のうちにこもっている。

 佛法はただ 何となくたのもしく 本願力を仰ぐばかりぞ

 聞いた おぼえた こころまで 弥陀に取られて丸裸 裸でいつも親の前
 何十年の聴聞の 免状すてて幼稚園 これから先も幼稚園
 臨終一念の夕べまで 聞かぬ昔の赤児にて 大般涅槃を超証す
 願力不思議 不思議なり

稲垣瑞劔師「法雷」第63号(1982年3月発行)

2022年9月15日木曜日

往生三カ条(三)

 三十年説教を聞いても、私は聞かぬ昔と少しも変わらぬ。自分で何ぞ変わった、有り難そうなところが出来たかというと、少しも変わらぬ昔のままである。
 この心が少しは善くなったかと思うと、そうではなく、昔の通り腹も立つ、欲も出る、人の悪口言うのも止まぬ。

 変わったところといえば、聞けば聞くほど、ますます地獄ならでは行き所のない、罪悪深重のいたずら者であるということを知らされただけである。
 そして、今まで幾千万べん聞かしてもろうていても気が付かなかった「親様」が、「親様」ということが分かった。
 また、今まで何べん聞いても眼が付かなかった「本願力」が、「本願力」と眼を付けさせていただいた。それだけのことである。阿弥陀様はありがたい。

 阿弥陀様は、どんなものをお助け下さるか。

 五逆罪を造ったものでも、佛法を謗ったものでも、佛法に縁の少ないものでも、回心懺悔して「親様なればこそ」と一たび「親様」ということに気付かせていただいたならば、必ず浄土に参らせていただける。有り難いことだ。

稲垣瑞劔師「法雷」第63号(1982年3月発行)

2022年9月10日土曜日

往生三カ条(二)

 三世諸佛はましませども、何にも知らず何にも出来ず、愚痴・無智・無能でその上に罪業深重、煩悩具足しておる凡夫は助けようがない。
 ただ、阿弥陀如来お一人が、この落ちねばならぬ衆生を見そなわして、
 「可哀想になあ、助けてやりたいなあ、私の念力で助けよう、大慈悲で助けよう、きっと助ける、助けなおかぬ」
と大決心をなされた。その大決心が本願である。
 本願は阿弥陀様の大慈悲心であり、大慈悲力であり、また「きっと助けるぞ」と約束してくださった大誓願力である。
 本願が成就して、約束通り、私が何もせず、何も知らず、「このまま」でお助け下さる佛智と大悲と力と、一切の功徳のかたまりが南無阿弥陀佛というよびごえである。

 今、阿弥陀如来は、南無阿弥陀佛となって我等の前に現れ、我等を後ろから「南無阿弥陀佛、落としはせぬぞ」と、しかと私を抱きかかえて、お浄土へ連れて行ってくださるのである。

夜はくらし 道もわからぬその時に
 阿弥陀如来が手を引いて 本願力は大きいでなあ!

 阿弥陀如来はありがたい。
 私のような罪業深重の、空っぽの、いたづらものを、落としはせぬぞと、ようまあ飛びついて下された。
 親様なればこそ、本願力なればこそ。

稲垣瑞劔師「法雷」第63号(1982年3月発行)

2022年9月5日月曜日

往生三カ条(一)

   往生の三カ条
 一、落ちるのは私
 二、助けたもうは弥陀如来
 三、南無阿弥陀佛にて往生す

 迷いを離れて生死の苦海を脱がれ、悟りを開いて宇宙の大真理と心性の大真理と佛の大真理を悟って、自分が佛になり、また一切衆生を佛にする身になるのが佛教の目的である。

 自力で佛に成ろうと思えば、どの宗派でも必ず戒定慧の三学を修せねばならぬ。
 戒とは一切の悪を作らず、一切の善根を修することをいう。
 定とは坐禅をすることであり、一切の世間のことを捨てて静かに座って、心の波が完全に静まって無念無想になり、真の無我に成り切ることである。その時一切の煩悩は滅して佛に成るのである。
 すなわち戒律を守り、禅定を修して、しかる後にあらわれる心性の光りを智慧という。

 今日の凡夫としては、三学を完全に修する人は、一人もあるまい。三学が出来ず、その反対に罪ばかり造っておったら地獄に、否でも応でも落ちなければならぬ。それで私は「落ちるのは私」と申し上げるのである。


 信心を得たら参れると聞いて、信心を得よう得ようにかかって、お寺参りしても「得よう」と思う心が邪魔をして、なかなか得られるものではない。お寺詣りは、信心を得ようと思って詣るよりも、
 (1)地獄行きを知らしてもらうために詣るのである。
 (2)本願力を聞くために詣るのである。
 また、お寺詣りは、聞いて聞いて聞きだめするために詣るのでなく、聞きだめしてもあかんということを聞きに詣るのである。聞きだめしたのを一つずつ取ってもらうために詣るのである。
 聞いたと思っても地獄行き、信じたと思っても地獄行き、
 善いことをしても地獄行き、悪いことをしても地獄行き、
 思うても地獄行き、思わずとも地獄行き、思いで参れるお浄土ではない。
 本願力で参らせていただくのである。

稲垣瑞劔師「法雷」第63号(1982年3月発行)

よびごえの うちに信心 落處あり

 佛智の不思議は、本当に不思議で、凡夫などの想像も及ばぬところである。佛には佛智と大悲がとろけ合っておる。それがまた勅命とも名号ともとろけ合っておる。  佛の境界は、妄念に満ち満ちた私の心を、佛の心の鏡に映じて摂取不捨と抱き取って下された機法一体の大正覚である。もはや佛心の鏡に映...