佛法はもう一通り聞かぬとあかん。
一通り聞いて、大体こんなものじゃということが分かる。その分かったのは、それはよそ事、他人行儀の聞き方であるから、自分のものになっておらぬ。
そうこうして、聞いて聞いてしておるうちに、「こら、うっかりしてはおられぬ、無常は迅速である、生死の事は、こないにしておってはならぬ」と気が付く。
さあ、それからじゃ。それからもう一段と、よい善知識について、飾り気のない、色つやのない、ほんまの話を聞かしてもらう。そうすると、ざくろがぱっと弾けるように、いつの間にやら、ほんまものになる。まあ本気でよう聴聞することじゃ。
通り一遍の佛法なら本を読んで分かるが、いざ自身後生の問題を、心底解決しようと思ったら、これはどうしても、よく分かった人について、口から耳へと伝えてもらわぬとあかん。佛法は言葉でないが、言葉を通さぬと、いただけぬ。
佛法の言葉というのは、口から出る声だけが言葉でない。眼の光り、顔の表情、手の振り方、その人の日常の行い、何から何までが言葉である。言うも言葉、言わざるも言葉、本気に聞こうという人は、よそのお方がよう聞かぬところを聞く、よう見ぬところを見て取る。そこが不思議じゃ。
稲垣瑞劔師「法雷」第64号(1982年4月発行)
2 件のコメント:
もう一段と、よい善知識について、飾り気のない、色つやのない、ほんまの話を聞かしてもらう。
とありますが、
無常は迅速であります。
よい善知識について、ほんまの話を聞かしてもらいましょう。
ほんとにその通りです。横着してたらあきませんね。
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