2022年10月10日月曜日

もう一段

 佛法はもう一通り聞かぬとあかん。
 一通り聞いて、大体こんなものじゃということが分かる。その分かったのは、それはよそ事、他人行儀の聞き方であるから、自分のものになっておらぬ。
 そうこうして、聞いて聞いてしておるうちに、「こら、うっかりしてはおられぬ、無常は迅速である、生死の事は、こないにしておってはならぬ」と気が付く。
 さあ、それからじゃ。それからもう一段と、よい善知識について、飾り気のない、色つやのない、ほんまの話を聞かしてもらう。そうすると、ざくろがぱっと弾けるように、いつの間にやら、ほんまものになる。まあ本気でよう聴聞することじゃ。

 通り一遍の佛法なら本を読んで分かるが、いざ自身後生の問題を、心底解決しようと思ったら、これはどうしても、よく分かった人について、口から耳へと伝えてもらわぬとあかん。佛法は言葉でないが、言葉を通さぬと、いただけぬ。
 佛法の言葉というのは、口から出る声だけが言葉でない。眼の光り、顔の表情、手の振り方、その人の日常の行い、何から何までが言葉である。言うも言葉、言わざるも言葉、本気に聞こうという人は、よそのお方がよう聞かぬところを聞く、よう見ぬところを見て取る。そこが不思議じゃ。

稲垣瑞劔師「法雷」第64号(1982年4月発行)

2 件のコメント:

土見誠輝 さんのコメント...

もう一段と、よい善知識について、飾り気のない、色つやのない、ほんまの話を聞かしてもらう。
とありますが、

無常は迅速であります。
よい善知識について、ほんまの話を聞かしてもらいましょう。

光瑞寺 さんのコメント...

ほんとにその通りです。横着してたらあきませんね。

和讃と歎異抄の味わい⑹

 四、死と組み打ちして  「語中に語無し」じゃ。「ただ念佛して」とあるからといって、本願のいわれも聞き開くこともなく、ただ口に念佛ばかり称えては、その人の往生は果たしてどうであろうか。  ある人はただ念佛して直ぐ如来の大悲心を感得し、めでたく往生する人もあろうが、またある人は念佛...