2022年10月20日木曜日

極楽

 極楽は楽しいところじゃ。苦がないから楽しい、楽がないから楽しい。楽のあるような世界なら、法性常楽といったほんまの楽しみはない。
 凡夫の楽しみは、そのままの苦じゃ。苦が初めて顔を出した時を楽しみじゃと言うておる。楽しみのない浮世に生まれ出ながら、楽しみをこの世で得ようというのであるから、そもそも迷いも甚だしいものじゃ。

 極楽は、凡夫を佛に仕立て、また苦しい娑婆に出て来て、衆生済度の役を果たさす身支度をする世界じゃ。言わば、この苦の土が芝居の舞台、極楽は楽屋じゃ。
 楽屋で如来様から大慈大悲の衣装を被せてもろうて、この世の舞台で自身教人信の役を務めるのや。私ゃいつでも苦の土で芝居をする役者である。他の仕事は付けたり、自信教人信が本役じゃ。
 この大芝居の座長は阿弥陀様じゃ、せりふは南無阿弥陀佛、あらおもしろや、おもしろや。

稲垣瑞劔師「法雷」第65号(1982年5月発行)

2 件のコメント:

土見誠輝 さんのコメント...

「極楽無為涅槃界」と『法事讃』にあり、これを読み下すと、
「極楽は無為涅槃の界なり」となります。

『唯信鈔文意』には、
「極楽無為涅槃界」といふは、「極楽」と申すはかの安楽浄土なり、よろづのたのしみつねにして、くるしみまじはらざるなり。かのくにをば安養といへり。
と教えていただいております。

光瑞寺 さんのコメント...

「真佛土巻」には『涅槃経』を引かれて、涅槃の無楽を示して曰く

 「楽を断ぜざるは、名づけて苦とす」
 「楽を断ずるを以ての故に、苦あること無けん」

と。娑婆の凡夫には知りかねるけれども、我々の求める快楽とは段が違うことは教えて頂けます。

よびごえの うちに信心 落處あり

 佛智の不思議は、本当に不思議で、凡夫などの想像も及ばぬところである。佛には佛智と大悲がとろけ合っておる。それがまた勅命とも名号ともとろけ合っておる。  佛の境界は、妄念に満ち満ちた私の心を、佛の心の鏡に映じて摂取不捨と抱き取って下された機法一体の大正覚である。もはや佛心の鏡に映...