説教も着物を着ておる。説教師も丸はだかの人は少ない。書物も知識も、凡夫の思いも行いも皆、色衣を着ておる。丸はだかのものは、庭の菊と天上の月ばかりかと思われる。
人間は丸はだかで生まれてきたのであるが、「おぎゃあ!」の声が、あれが浮世の着物の着始めである。それから、学校へ行く、佛法を聞く、書物を読む。考える、善し悪しを覚える。人を批評し、自分の心を批評し、社会人生を批判する。これが皆着物である。
一度着物を着ると、どうしてもそれが脱げぬ。それを経験といい、また体験という。善いようなもので悪いものである。
人間の苦しみは、着物を着るからである。着物を脱げば楽になるのであるが、脱ぐのは墓の中に入ったときか。いやいや墓の中も冷たい暗い処である、怕(こわ)いような気がする。
生きたまま死んだらよいと思うが、それも難しいことである。または人間の中に交わっていて、脳味噌だけ野か山に捨ててしまうと気楽な生活ができると思うが、それも、そうする人が少ない。
稲垣瑞劔師「法雷」第67号(1982年7月発行)
2 件のコメント:
丸はだかのものは、庭の菊と天上の月ばかりか
とありますが、
まことに、私たち人間は、我執我欲の着物を着込んで、自己防衛をしています。
そんなものに、丸はだかのまま来いと、如来様が喚んで下さるのです。
そのまま助けると仰って下さいますから、そのまま助かって下さい。
そのまま来いよと喚んで下さればこそですね。
「千万人 のりの衣の 文字言句
あわれやあわれ ぬぐ人はなし
ぬぐもよし きたる衣は そのままに
ぬがぬにぬげる 峯の松風」(瑞劔師)
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