2022年12月10日土曜日

着物は脱がれぬ

 説教も着物を着ておる。説教師も丸はだかの人は少ない。書物も知識も、凡夫の思いも行いも皆、色衣を着ておる。丸はだかのものは、庭の菊と天上の月ばかりかと思われる。

 人間は丸はだかで生まれてきたのであるが、「おぎゃあ!」の声が、あれが浮世の着物の着始めである。それから、学校へ行く、佛法を聞く、書物を読む。考える、善し悪しを覚える。人を批評し、自分の心を批評し、社会人生を批判する。これが皆着物である。
 一度着物を着ると、どうしてもそれが脱げぬ。それを経験といい、また体験という。善いようなもので悪いものである。
 人間の苦しみは、着物を着るからである。着物を脱げば楽になるのであるが、脱ぐのは墓の中に入ったときか。いやいや墓の中も冷たい暗い処である、怕(こわ)いような気がする。

 生きたまま死んだらよいと思うが、それも難しいことである。または人間の中に交わっていて、脳味噌だけ野か山に捨ててしまうと気楽な生活ができると思うが、それも、そうする人が少ない。 

稲垣瑞劔師「法雷」第67号(1982年7月発行)

2 件のコメント:

土見誠輝 さんのコメント...

丸はだかのものは、庭の菊と天上の月ばかりか
とありますが、

まことに、私たち人間は、我執我欲の着物を着込んで、自己防衛をしています。
そんなものに、丸はだかのまま来いと、如来様が喚んで下さるのです。
そのまま助けると仰って下さいますから、そのまま助かって下さい。

光瑞寺 さんのコメント...

そのまま来いよと喚んで下さればこそですね。

「千万人 のりの衣の 文字言句
  あわれやあわれ ぬぐ人はなし

 ぬぐもよし きたる衣は そのままに
  ぬがぬにぬげる 峯の松風」(瑞劔師)

よびごえの うちに信心 落處あり

 佛智の不思議は、本当に不思議で、凡夫などの想像も及ばぬところである。佛には佛智と大悲がとろけ合っておる。それがまた勅命とも名号ともとろけ合っておる。  佛の境界は、妄念に満ち満ちた私の心を、佛の心の鏡に映じて摂取不捨と抱き取って下された機法一体の大正覚である。もはや佛心の鏡に映...