蓮如上人は我等のごとき凡夫を「末代無智」と仰せられたのであるが、説教を聞き、書物を読み、真宗学を五年十年とやっておると、ついついいつの間にやら、末代無智が現代有智になってしまう。
人間が有智になると、「釈迦弥陀は慈悲の父母」ということを忘れて、信心を取りにかかる。
信心を取ろうと思って一歩踏み出すと、「何を信じたら助かるのか」「どう信じたら救われるか」ということを頭の中に置いて、心の中で思案工夫し、思い煩うのである。
そして「極楽の道は一すじ南無阿弥陀」と聞いても、南無阿弥陀佛を分析してかかる。「誓願不思議」を聞かされても、「誓願とはどういうものか」と、また分析し理解しようとかかる。このように分析に分析を重ね、知解に知解を重ねて物識りになり、学者になる。
こうなって心の中はどうであるかといえば、阿弥陀如来の無量力功徳も忘れ、南無阿弥陀佛の威神功徳不可思議も忘れ、誓願不思議の大智大悲のよびごえすらも忘れて、「ああそうか、分かった」「分からなくなった」「私は阿弥陀様にまかせました」「如来様が助けて下さると思うております」「分かっておりますが、もう一つ安心がなりません」などと行きつ戻りつして、何十年経っても埒が明かん。
ところが、だんだんと如来様の照育にあずかり、方便力回向にあずかって、佛智不思議、誓願不思議、名号不思議、大慈悲不思議、如来様の無量力功徳の不思議が徹到して、赤児の阿呆にせられてみると、宇宙旅行者が地球外に飛び出して初めて大空の色を見、地球の色を見たように、「誓願不思議、名号不思議」が、特別に如来大悲の生命の色をもって現れていてくださっていることが、初めて拝まれるのである。赤児になるとは、「ただ信ずる」ことである。
如来の大生命が我が生命、如来の成正覚が我が血肉、如来正覚の功徳力が我が信心、如来の誓願不思議が我が往生と、何の造作もなく、苦労もなく、努力も費やさずして、すらっといただけるのである。
この時、如来様は無量力功徳の親様で、南無阿弥陀佛は威神功徳不可思議力の「大悲の佛智」の丸出しであり、その佛力を丸出しにして、「助けなおかぬ」の大誓願は、そのまま誓願不思議、不可思議力の大誓願力であることが、何となくたのもしくいただけるのである。
そこのところを誓願不思議を「誓願不思議」といただき、「極楽の道は一すじ南無阿弥陀」といただくというのである。
その世界には、凡夫自力の迷心が少しも混じっていない。それ故、その大信心を指して「義なきを義とすと信知せり」と仰せられるのである。これが「願力自然」「自然法爾」の深義である。
要は「弥陀の誓願不思議」を「誓願不思議」といただき、「極楽の道は一すじ南無阿弥陀」を「極楽の道は一すじ南無阿弥陀」といただくばかりである。願力不思議は、凡夫のはかろうべきところではない。謙敬聞奉行、素直に、ただ仰ぎたてまつるのみである。
稲垣瑞劔師「法雷」第71号(1982年11月発行)
2 件のコメント:
悲願は喩えば太虚空のごとし
と表題にありますが、
教行信証の行の巻に、
「悲願はたとへば太虚空のごとし、もろもろの妙功徳広無辺なるがゆゑに。」
とありました。
現代語訳では、
悲願は大空のようです、広大無辺のさまざまな素晴らしい功徳を包んでいるからです。
いつの間にか大きな世界に気付かせてもらえるのが有り難い。
「凡夫のはかろうべきことにあらず」
と、いつも手放しでおっしゃってくださいます。
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