煩悩の雲霧のうちから、善導大師や法然様や、親鸞聖人のおすがたが、にゅうと現れてくださって、そのお言葉が煩悩の雲霧を破って朝日の東天に昇るがごとくに、消しても消しても出て下さる。ああ、佛語というものは尊いものである。ただただ佛語・佛教・佛願が現れてくださるので、ありがたい。私の心の依りどころ、安心のしどころ、往生の礎である。
如来様、お釈迦様、また祖師聖人の「御和讃」のお言葉、あれがなかったら、いくら説教を聞いても、説教をしても、埒が明かなかったであろうに、お聖教のお言葉があり、お言葉の裏には、尊い人格が光ってござるで、頭が下がる。お言葉の前に頭が下がる。お言葉のうちに安心させていただく。これ以外に私の信心も安心もない。もう私は九十歳の赤児である。親と親の言葉が私のいのちである。
法のため ささげしいのち 法のため
なおささげよと 古稀の春をば
とかく若いうちは学問をし、説教をし、議論もし、批評もし、色々とやるものであるが、なかなか赤児になって、「和讃」の一句が如来の金言、いや、諸佛如来と拝めぬものや。それでいくら説教をしても、いくら説教を聞いてもあかん。如来と如来のお言葉以外に、信心も安心の依りどころもない。
いくらおろかなものでも、「和讃」の一首や二首は憶えられる。憶えて、そのわけを聞かせていただいたならば、それが我がいのち、これより他に我が往生はない、と肚を決めて、かたじけなく、ありがたくいただかぬと勿体ない。
稲垣瑞劔師「法雷」第71号(1982年11月発行)
2 件のコメント:
法のため ささげしいのち
とありますが、
阿弥陀仏 我らとともにまします
阿弥陀仏 我らとともにましまして 我をたのめと よびたもうなり
我がために 身をすてられし みほとけの ご恩受く身を 世にささげたし
ああこれは有り難いお歌です。南無阿弥陀佛。
詠み手についてまたお聞かせいただければと思います。
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