まことの言葉を、そのままいただけばよし。誓願不思議を「誓願不思議」といただき、南無阿弥陀佛を「南無阿弥陀佛」といただくのである。
くどくどしい説明はいらぬ。最高の説明はお聖教である。凡夫自力の智慧を持ち出すと往生を仕損ずる。分かっても落ちる、分からなくても落ちる。信心を取ったと思うて、その信心を失わぬように力こぶを入れておると肩が凝る。気が詰まる。肩の凝らぬ佛法は、
「誓願不思議、極楽の道は一すじ南無阿弥陀」
である。凡夫が佛に成るのは、棚から牡丹餅どころか東山水上行(とうざんすいじょうこう)である。
聞こえても、聞こえなくとも、信じられても、信じられなくとも、安心があろうが、無かろうが、
「誓願不思議、極楽の道は一すじ南無阿弥陀」
である。
説明を充分にして人を喜ばすこともさのみ難しいことでないが、喜んで何になる。喜ばせて何になる。喜びを当てにしておると、その喜びは朝日の前の露の玉で、また直ぐ消え失せるであろう。
このこころ きのうのこころ どこへやら
今の心も風車 明日の心もたよりない
三世の心 変わりづめ 変わらぬ親の大悲心
無碍の佛智の月かげを 仰ぐこころも おかげさま 瑞劔
そうかと言うて「聞其名号信心歓喜」「能発一念喜愛心」とあるからは、信心の上のよろこびは、願力自然のよろこびであるから、それまで悪いというのではない。佛法のよろこびは、何はさておき、生死について苦が抜けたよろこびである。
瑞劔には何の体験もなく、何の力もなく、少しばかりの智慧も才学もない。ただ、
「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて往生をば遂ぐる」
のである。
体験という体験も さらになし
南無阿弥陀佛を 今はじめてぞ聞く 瑞劔
和讃に曰く、
「佛智の不思議を信ずるを 報土の因としたまへり」
と。仰ぐべし、信ずべし。
稲垣瑞劔師「法雷」第72号(1982年12月発行)
2 件のコメント:
南無阿弥陀佛を「南無阿弥陀佛」といただくのである。
とありますが、
自然(じねん)のすがたであります。
何の力も要らない、自由な世界であります。
握り締めが解かれたようなものです。
「南無阿弥陀佛とは何か」ということをいろいろ理屈で解釈しようとしていますが、生きた南無阿弥陀佛さまが迫ってきてくださるより他にないのでしょう。
「ひるはひねもす 夜は夜もすがら 若不生者とせまりくる 瑞劔」
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