凡夫は「我」と「我ならざるもの」とが、どうしても一つに見えない、また一つに思われない。ゆえに無明煩悩が尽きる時がない。「自身は現に罪悪生死の凡夫」とは、ここのところを言ったものである。
佛は心の波をしずめ切った人であるから、自己と一切衆生とを二つに見ない。「我」と「我ならざる」草木国土とをちがったものと御覧にならない。
そうなれば大したもので、無明煩悩の汚れは少しも無く、心は清浄真実になり切って、大智大悲の光明が自然に出てくる。光明は如来の活動である。
その光明が行であり、本願であり、名号であり、勅命である。我等は如来の光明によりて救われる。ゆえに聖人は「無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり」と仰せになられた。
雄渾無比の宗教、凡夫超証の妙法は真宗である。往生また何をか疑わん。皆斉しく願力自然に引かれて往生するのである。
稲垣瑞劔師「法雷」第73号(1983年1月発行)
3 件のコメント:
「我」と「我ならざるもの」
とありますが、
「我」と「無我」ということですが、
よく、「常楽我浄」と「無常、苦、無我、不浄」という関係で、
私たちは、万物の真相に反して、無常を常、苦を楽、無我を我、不浄を浄と思い、
四顛倒の妄念におちいっていると言われます。
「諸法無我」を説くのが仏教ですから、「我」「我」「我」と固執せずに生きて
いくのが良いと思っています。
思っていますという、あやふやなコメントで申し訳ありません。
顛倒を顛倒と知らず、妄念に狂う私を捨てることなく倦むことなく、「辛かろう、苦しかろう」「どうか目を覚ましておくれ」とお育て下さいます。くれぐれも御苦労様なことです。
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