2023年6月10日土曜日

無碍光の利益にて

 凡夫は「我」と「我ならざるもの」とが、どうしても一つに見えない、また一つに思われない。ゆえに無明煩悩が尽きる時がない。「自身は現に罪悪生死の凡夫」とは、ここのところを言ったものである。

 佛は心の波をしずめ切った人であるから、自己と一切衆生とを二つに見ない。「我」と「我ならざる」草木国土とをちがったものと御覧にならない。
 そうなれば大したもので、無明煩悩の汚れは少しも無く、心は清浄真実になり切って、大智大悲の光明が自然に出てくる。光明は如来の活動である。
 その光明が行であり、本願であり、名号であり、勅命である。我等は如来の光明によりて救われる。ゆえに聖人は「無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり」と仰せになられた。

 雄渾無比の宗教、凡夫超証の妙法は真宗である。往生また何をか疑わん。皆斉しく願力自然に引かれて往生するのである。

稲垣瑞劔師「法雷」第73号(1983年1月発行)

3 件のコメント:

土見誠輝 さんのコメント...

「我」と「我ならざるもの」
とありますが、

「我」と「無我」ということですが、
よく、「常楽我浄」と「無常、苦、無我、不浄」という関係で、
私たちは、万物の真相に反して、無常を常、苦を楽、無我を我、不浄を浄と思い、
四顛倒の妄念におちいっていると言われます。

「諸法無我」を説くのが仏教ですから、「我」「我」「我」と固執せずに生きて
いくのが良いと思っています。

土見誠輝 さんのコメント...

思っていますという、あやふやなコメントで申し訳ありません。

光瑞寺 さんのコメント...

顛倒を顛倒と知らず、妄念に狂う私を捨てることなく倦むことなく、「辛かろう、苦しかろう」「どうか目を覚ましておくれ」とお育て下さいます。くれぐれも御苦労様なことです。

よびごえの うちに信心 落處あり

 佛智の不思議は、本当に不思議で、凡夫などの想像も及ばぬところである。佛には佛智と大悲がとろけ合っておる。それがまた勅命とも名号ともとろけ合っておる。  佛の境界は、妄念に満ち満ちた私の心を、佛の心の鏡に映じて摂取不捨と抱き取って下された機法一体の大正覚である。もはや佛心の鏡に映...