2023年9月10日日曜日

無我になり切った御方

 現代はおおかたの人が目玉を外の方にばかり向け、自分の利益を中心に考えもし、日常の行いもする。
 お釈迦様は、一切衆生のことばかりを思うて、文字通り「無我」になり切った御方である。無我は「さとり」の中身である。無我の底には「大智大悲」が流れてある。大智大悲になり切らぬと、無我になり切ることもできぬ。
 われらは生死の凡夫であるが、やがてお浄土に参って、無我そのものになり切らせていただくのである。それが如来の本願力というものである。本願力の目的はその他にはない。真宗の目的もそれ以外にはない。他力真宗は実に立派な、他に類のない宗教である。

 無我になり切って、一切衆生に大悲を施しうる身になることが嫌なら、それは勝手にせられたらよいのであるが、それでも如来は、そういう人が悪より悪に移り、苦から苦に入るすがたをじっと見ているわけにゆかぬ、見るに見かねて、天地の真理に一体となり、心の真理、肉体の真理を歪めることなく、真理を真理のまま、経をお説きくだされた。そして、一切衆生が苦をのがれて、最高の楽しみを得られるようにと、今現に二六時中はたらいてくだされているのである。如来の出現は、遠い昔のはなしではない。お経の文字の中に、いわれの中に、生きた如来はまします。
 私が今生きさせていただいておるうちに、如来はましますのである。如来があって私が生きておる。如来の無量寿のうちに、私の無量寿がある。如来なくして私の真の存在はないのである。

稲垣瑞劔師「法雷」第77号(1983年5月発行)

2 件のコメント:

土見誠輝 さんのコメント...

私が今生きさせていただいておるうちに、如来はまします
とあります。

「おるうちに、」は、
生きさせていただいている間に、 と解釈するより、
生きさせていただいているその中に、 と解釈するのが、
良いと思いました。 

光瑞寺 さんのコメント...

お仏壇のお姿のうちにも、お経の文字のうちにも、そして私が生きさせていただいておる、その迷いの真っ只中にも、如来様がおはしますとは。不思議な、有り難い、なんとも申し上げようのない。

よびごえの うちに信心 落處あり

 佛智の不思議は、本当に不思議で、凡夫などの想像も及ばぬところである。佛には佛智と大悲がとろけ合っておる。それがまた勅命とも名号ともとろけ合っておる。  佛の境界は、妄念に満ち満ちた私の心を、佛の心の鏡に映じて摂取不捨と抱き取って下された機法一体の大正覚である。もはや佛心の鏡に映...