現代はおおかたの人が目玉を外の方にばかり向け、自分の利益を中心に考えもし、日常の行いもする。
お釈迦様は、一切衆生のことばかりを思うて、文字通り「無我」になり切った御方である。無我は「さとり」の中身である。無我の底には「大智大悲」が流れてある。大智大悲になり切らぬと、無我になり切ることもできぬ。
われらは生死の凡夫であるが、やがてお浄土に参って、無我そのものになり切らせていただくのである。それが如来の本願力というものである。本願力の目的はその他にはない。真宗の目的もそれ以外にはない。他力真宗は実に立派な、他に類のない宗教である。
無我になり切って、一切衆生に大悲を施しうる身になることが嫌なら、それは勝手にせられたらよいのであるが、それでも如来は、そういう人が悪より悪に移り、苦から苦に入るすがたをじっと見ているわけにゆかぬ、見るに見かねて、天地の真理に一体となり、心の真理、肉体の真理を歪めることなく、真理を真理のまま、経をお説きくだされた。そして、一切衆生が苦をのがれて、最高の楽しみを得られるようにと、今現に二六時中はたらいてくだされているのである。如来の出現は、遠い昔のはなしではない。お経の文字の中に、いわれの中に、生きた如来はまします。
私が今生きさせていただいておるうちに、如来はましますのである。如来があって私が生きておる。如来の無量寿のうちに、私の無量寿がある。如来なくして私の真の存在はないのである。
稲垣瑞劔師「法雷」第77号(1983年5月発行)
2 件のコメント:
私が今生きさせていただいておるうちに、如来はまします
とあります。
「おるうちに、」は、
生きさせていただいている間に、 と解釈するより、
生きさせていただいているその中に、 と解釈するのが、
良いと思いました。
お仏壇のお姿のうちにも、お経の文字のうちにも、そして私が生きさせていただいておる、その迷いの真っ只中にも、如来様がおはしますとは。不思議な、有り難い、なんとも申し上げようのない。
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