2024年3月5日火曜日

み佛に 見られ知られて うれし慚(はずか)し

 言葉には「義」がともなう。人間の言葉には限りがある。しかし佛様の心は無限である。それを「義」という。
 「勅命」は言葉であるが、その言葉は無限の力を持っておる。如来の全体、功徳の全体が生き生きとして、ぴちぴちおどっておる。またそのまま如来の「無碍の光明」なるが故に、私のきたない胸のうち、悪業煩悩の底まで徹ってくださるのである。

稲垣瑞劔師「法雷」第83号(1983年10月発行)

2 件のコメント:

土見誠輝 さんのコメント...

それを「義」という。
とあります。
義を漢和辞典で調べると、
①よい(宜)。よろしい。ただしい。正しい道にかなっていること。
②のり。みち。人のふみ行なうべき正しい道。正義。
③君臣のあいだの道徳。五倫の一。
④人道のために尽くすこと。
⑤すぐれる。善行が人よりすぐれる。
⑥わけ。むね。意味。
⑦道理。
⑧血族でない者が血族と同じような関係にあること。義理。
⑨かり(仮)。実物のかわり。
とありました。ここでは、⑦と味わせていただきました。

光瑞寺 さんのコメント...

一字に多くの意味が含まれていますね。
「義なきを義とす」などという佛様の智慧あらわれた境地は、言葉や道理を超えているのでしょう。

よびごえの うちに信心 落處あり

 佛智の不思議は、本当に不思議で、凡夫などの想像も及ばぬところである。佛には佛智と大悲がとろけ合っておる。それがまた勅命とも名号ともとろけ合っておる。  佛の境界は、妄念に満ち満ちた私の心を、佛の心の鏡に映じて摂取不捨と抱き取って下された機法一体の大正覚である。もはや佛心の鏡に映...