2024年3月10日日曜日

このまま㈠

 「このままやで」
 「変わらんぞよ 変わらんぞよ」

 信心をいただいたら、何ぞ変わったところが出てくるかと思うていたら、そうではなくて、やっぱり昔のように腹も立てば欲も出る。聞かぬ昔と変わったところは少しも無い。

 聞いたおぼえたこころまで、弥陀に取られて丸はだか、はだかでいつも親の前。何十年の聴聞の免状すてて幼稚園、これから先も幼稚園、臨終一念の夕べまで、聞かぬ昔の赤児にて、大般涅槃を超証す。願力不思議、不思議なり。

 信心を得たら、何ぞ変わったところが自分の心のうちに、身の行いのうちに出来て、それが自分に見つかるであろうと思うていたら、そうではなくて、聞かぬ昔の赤児であると気付かせていただいた。
 「このまま」というたら、ほんまに「このまま」、いつでも「このまま」。いかなる時も、いかなる場も、絶対に「このまま」である。「このまま」であったら、地獄へ落ちねばならぬ。左様、地獄へ落ちる「このまま」である。
 「このまま」で何で助かるか。

 「本願力が大きいでなあ」

 「本願力が大きいでなあ」ということは、「落ちるのは私」ということが知られた人のみ、その不可思議なお慈悲に不可思議な佛智が味わい得られるであろう。

稲垣瑞劔師「法雷」第83号(1983年11月発行)

2 件のコメント:

土見誠輝 さんのコメント...

信心をいただいたら、……
信心を得たら、……
とあります。

「信もなし、疑もなし、生も死も、
ただ南無阿弥陀、南無阿弥陀仏」
と木村無相さんは、仰られたそうです。「たら」はいりません。

光瑞寺 さんのコメント...

「左様、このままである」
というのが驚きです。
大きな世界に包まれています、大きな大きなお慈悲と智慧に抱かれています。

和讃と歎異抄の味わい⑹

 四、死と組み打ちして  「語中に語無し」じゃ。「ただ念佛して」とあるからといって、本願のいわれも聞き開くこともなく、ただ口に念佛ばかり称えては、その人の往生は果たしてどうであろうか。  ある人はただ念佛して直ぐ如来の大悲心を感得し、めでたく往生する人もあろうが、またある人は念佛...