何事も遷(うつ)り変わりしておる定めなき世の中に徒に(いたずらに)明かし暮らして、無常転変の世・露のごとき命とも知らず安住の思いをなすのは、我らの迷える顛倒した考えであります。
たれもまた かくやなるみの 夕日潟 今日をも知らぬ わが命かな(古歌)
一面には罪に汚れし身を生死の大海に漂没せしめておる、あわれはかなき自己であるとさとりつつ、また一面には如来大悲の願船に乗じて、光明の広海に浮かんだ身であれば、佛の御国より吹き来る風は静かに、寄せ来る禍の波は金銀の珠玉(たま)とくだけ、常夜なりし迷いの闇もくまなく晴れて、命終われば速やかに無量光明土に到りて、法性常楽のさとりを開き得ると信じさせていただくのが、我らの信仰であります。
不定(ふじょう)の人界に生をうけながらも光明の広海に浮かぶ身となって、今日までわが身ありがおの体をよそおいながらも儚き露命をつながせていただいたればこそ、垢障(くしょう)の凡身を以て如来の御用を勤めしめたまえること、ありがたくも尊きことであります。
中国に傅(ふ)大士という大徳がおられましたが、この方は生きながら兜率天に生をうけておると観ぜられた聖者であると伝えられていますが、我らは勿体なくも佛様の正覚の蓮華に坐し、お浄土の聖き人たちのうちに入れられています。
すでに御佛の救いの御手に抱きとられている身であるという信念一たびおこれば、六道生死の業のきずなは断(き)れ果てているのであるから、生も死も何ら念頭にかかる雲もなく、朝な朝な御佛とともに起き、夕な夕な御佛とともに臥し、一如法界の真身が顕るる時を待つばかりの身であります。
稲垣瑞劔師「法雷」第83号(1983年11月発行)
2 件のコメント:
「かかる雲もなく、朝な朝な御佛とともに起き、夕な夕な御佛とともに臥し、」とあります。
如来さまが、つねにご一緒下さるのです。ここに気づくことが有り難く、疑いの雲は全く無くなるのです。
すでに正覚華に坐して、聖者と等しき心境にある、とはとうてい考えられることではありませんが、信心の徳として迷いの根はきれはてているのですね。もったいないことです。
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