2024年4月20日土曜日

死の解決㈡

 「善を為せ」というか。「神仏に祈れ」というか。神仏は黙然として物を言うてくれない。返答をしてくれない。泣いても叫んでも、訴えても祈っても、何の答えもない。我れを救いたもう神を信じたいのだが信ぜられぬ。
 どこの医者でも病院でも「絶望」と言われた患者が、神に祈って治った者が幾人おるだろうか。それにも拘わらず「神に祈ればきっと良くなる」と断言する教師の面の皮の厚さには驚くではないか。

 自分の死は一日一日と迫ってくる。聖なる理想を追求せしめる理性は、かつて知られなかった強烈なる要求を以て内部から迫ってくる。
 浮世の生命、それは尊い、望ましいものであるが、死の烙印を捺された今となっては、聖なる生命、不死の生命、無量寿の生命! ああ、その生命が欲しい。死を通して生き抜く大生命が欲しい。

 人生の解決は、浮世の生の解決に非ずして、死の解決である。死の解決は人生の解決である。
 死を如何にして解決するか、今眼前に迫っておる死をどうすれば解決できるか。古来一人でもよいが、ほんとうに死を解決して、不死の大道と一如になった人がおるであろうか。
 ああ、その人の声が聞きたい。その人の教えが知りたい。この場に臨んで悪魔の声は聞きたくない。偽宗教の言葉は聞きたくない。真理の声が聞きたい。真理のみが今の自分を解放してくれる。真理のみが不死の大自由境に自分を遊ばせてくれる。
 されど冷たい真理が、それが何になるか。何十年もかかって悟らなければ分からぬような真理が、どうして今の間に合うか。脳漿(のうしょう)を搾って真理を理解し、真理を聞いて合点し、書物を読んで道理理屈が分かったところで、それが何の役に立つか。自分の欲しておるものは「死の解決」である。冷たい真理は自分の「死」と、あまりに遠くかけ離れている。どこかに「温かい真理」はあるまいか。真理と合一した温かい人はいないか。自分はその人の声を聞きたい。
 死の宣告を受ける前に、いろいろの宗教をかじってみた。宗教書も、哲学の書物も読んでみたが、一つとして死を解決するに足る満足なる言葉に接したことがない。頭から「信ぜよ」「信ずるものは救われる」と言われたところで、何を、如何に信ずるか、信じたらどうなるか、「救い」とは何の意味か、救われたらどういう境地に達せられるのか、人は何故に救われねばならぬのか、と尋ねてみるが一向に明答は得られない。
 「行をせよ」「心の埃を払え」「善いことをせよ」「懺悔せよ」「祈れ」「因縁を断ってやる」「霊を祀れ」「汝の罪は赦されたり」などと言われたところで、今の自分の死の解決に役に立ちそうにも思われぬ。

稲垣瑞劔師「法雷」第83号(1983年11月発行)

2 件のコメント:

土見誠輝 さんのコメント...

「神仏は黙然として物を言うてくれない。」とあります。

神仏の胸を叩いても、何にも出できません。そのまま堕ちるしかありません。私から掴まえるものは、何もありません。

光瑞寺 さんのコメント...

温かい真理、血の通った真理の声、それが、それ一つが枯渇の衆生を活かしむるのでしょう。
南無阿弥陀佛、南無阿弥陀佛。

よびごえの うちに信心 落處あり

 佛智の不思議は、本当に不思議で、凡夫などの想像も及ばぬところである。佛には佛智と大悲がとろけ合っておる。それがまた勅命とも名号ともとろけ合っておる。  佛の境界は、妄念に満ち満ちた私の心を、佛の心の鏡に映じて摂取不捨と抱き取って下された機法一体の大正覚である。もはや佛心の鏡に映...