2024年4月25日木曜日


   人生の 浮沈も親と もろともに   瑞劔


 心の影法師を追い回すたびごとに、「それが無上佛に成るに何の役に立つか」と考えてみる必要がある。「知った」「覚えた」ことばかりが耳の底に残っていては、聞いた所詮がない。
 「凡夫のすることは、何一つ役に立たぬ」となれば心さみしく思うであろうが、一たび本願力に眼をつけ、誓願不思議に腹がふくれてみれば、如来を拝見した心地して、その淋しさは慶びと変わる。

稲垣瑞劔師「法雷」第84号(1983年12月発行)

2 件のコメント:

土見誠輝 さんのコメント...

「聞いた所詮がない。」とあります。

いくら聞法をしていても、何の役にも立ちません。聞いて救われるのではありません。底の底で、お助けを聞くばかりです。

光瑞寺 さんのコメント...

「聞いたとて役に立たぬ」とお示しいただくと、楽になります。
「役に立つ」という頭がなかなか離れません。

よびごえの うちに信心 落處あり

 佛智の不思議は、本当に不思議で、凡夫などの想像も及ばぬところである。佛には佛智と大悲がとろけ合っておる。それがまた勅命とも名号ともとろけ合っておる。  佛の境界は、妄念に満ち満ちた私の心を、佛の心の鏡に映じて摂取不捨と抱き取って下された機法一体の大正覚である。もはや佛心の鏡に映...