世の人は「救い」「救い」と言っておるが、「救い」とは何であるか、殆どすべての人が「救い」を知らない。死を宣告された人から見ると、五欲街道の修理は「救い」でない。
真の救いは、救う人と同じ境地に到達してこそ「救われた」と言えるのである。あるいは、救う人の境地に必ず行けるという大自覚を持ってこそ「救われた」と言えるのである。
今日教えを説く人は教主ではない、聖者ではない。我らと同じく五欲に耽っておる凡愚である。それを思わなくてはならぬ。教師自らもそれを自覚して告白しなくてはならぬ。
かかる見地に立って世界中の宗教を眺めてみると、悲しい哉、どの宗教も、「神に成れる」という教えはない。「神のみが救い主だ」「絶対者だ」「全智・全能・偏在・愛なり」と、お山の大将を決め込んでいても、罪の子である人間が神に成れないようなことでは、普遍の真理でも平等主義でもない。
神と人とを隔絶し、永久に牆壁を設けておるような宗教は、宇宙人生を根本的に解決し、人をして解脱に至らしめる能力なき宗教である。
人間は死んでゆく。同時にその人間は、罪に汚れてはおるが、神のところまでも、佛のところまでも自己を向上せしめ、自己を拡充しなければおかぬという、尊い、無限の大理想を持っておる不思議な動物だ。この聖なる欲求をどうしてくれるのか。
これを放棄するのは動物に還ることであり、これを抑圧するのは人間理性を冒涜するものである。この欲求を充たしてやる宗教こそ真の宗教でないか。
信仰すればどうなるのか。その到達点を示さなければつまらんではないか。到達点は神それ自身に成ることだ。佛それ自身に成ることだ。智慧を慈悲とを円満したる覚者になることだ。
神佛が真理であり、生命であり、自己拡充の絶頂に昇った人であるならば、人間もそのところまで行かねば、真の生命を克ち得たというわけにはゆかぬ。
「法」は法界に普遍し、万物に貫通しておる。「尽十方界は是れ真実人体」であり、「一顆の明珠」である。神と人との間に根本的隔絶が無いというのが真理である。
「神に祈れ」と教える宗教には、悲しい哉、神に成る教えがない、道がない。神人合一を物語るが、罪の子が実際神に成ったという前例がない。
ただ一つ大乗佛教においてのみ、解脱に至る教えがあり、佛陀に成る道がある。
稲垣瑞劔師「法雷」第84号(1983年12月発行)
2 件のコメント:
「佛陀に成る道がある。」とあります。
この言葉こそ、「仏教」の意味であります。
まだ若い頃、先輩に「人間であるかぎり無限に向上しようとする意志がある」という意見を申したところ、「我が身を振り返ってそれを言えるか?」と反論されたことがずっと残っています。
その問答のおかげで、念頭に離さず考えさせていただけます。
コメントを投稿