2024年6月20日木曜日

法の不思議

本願力があればこそ

 自分より可愛いものはない。自己を見つめて一心一向にならぬと、如来の本願力を、「本願力があればこそ」と仰ぐことはできぬ。また本願力を仰がなければ、信心二心なきことはできぬ。いつまでも「はからい」に囚われて、ぐるぐる自力の輪の中を回って自分の心を追い回していては、埒があかん。

 

三昧海の不思議

 佛智の不思議は、如来の三昧力・禅定力の不思議である。三昧成就のすがたが、それが、かたちもましまさぬ無上佛というものである。
 如来の三昧海は、大宇宙の真理と不可思議の体験である。如来の三昧海の不思議、すなわち本願海の不思議である。一切の佛事は如来の三昧海よりあらわれる。

  

如来の不思議

 名号のいわれを聞信すると佛の功徳が一念のところに私のものとなるのは、名号の不思議である。それを「功徳の大宝海を満足せしむ」とも、「選択の大宝海(名号)に帰して(信じて)念佛成佛す」ともいう。名号の不思議は、すなわち願力の不思議である。

  

大悲心の感得

佛智不思議の世界には言葉はない。凡夫の心も及ばぬ。説法は無言の説法で事足れりであるが、そういうわけにもいかぬ。説法の底に光る如来の大悲心を感得するのが佛法である。

稲垣瑞劔師「法雷」85号(1984年1月発行)

2024年6月15日土曜日

本願の不思議に助けられて往生すること

 大乗佛教の眼を開いて、真実の道を求めんとする昔の聖者たちの中には、龍樹菩薩や天親菩薩のごとく、此の世から悟りを開く即身成佛の理想を追うことを止めて、往生浄土の実際的の門を叩かれた人がたくさんあります。
 親鸞聖人は二十年間も叡山におられて、難行苦行をせられたのでありましたが、どうしても自己出離の問題を解決することができなかったところから、ついに法然上人の禅室を訪われたのでありました。これをみても即身成仏の教えのいかに至難であるかが分かります。
 私たちのごとき無善造悪の凡夫が、直ちに高妙なる弥陀の浄土に往生することができるのが、浄土真宗、親鸞聖人の宗教であって、これを願心荘厳の法門と申します。これはひとえに本願の不思議に助けられて往生を遂ぐる教法であります。
 生死の大問題がどうして自己の力で解決することができましょう。されば『執持鈔』には、

 「本願寺聖人の仰にのたまはく、・・・是非しらず邪正もわかぬこの身にて、小慈小悲もなけれども、名利に人師をこのむなり。往生浄土のためにはただ信心を先とす、そのほかをばかへりみざるなり。往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし」

と仰せられました。よくよく心を留めて我が身を省み、己が能を思量して深く佛法を味わい、たれのひとも往生の志願を満足せしむべきであります。
 ー 桂利劔師の法語

稲垣瑞劔師「法雷」第84号(1983年12月発行)

2024年6月10日月曜日

衣食住の三つそろいたること

 佛の冥加を有難く思う心だにあれば、たとい身は卑しく家は貧しくとも、自ずから衣食住そろいたることを喜ばるるものであります。
 孔子聖人は、

 「節を制し度を謹めば満つれども溢れず、満つれども溢れざれば、長く富を守る所以なり」

と仰せられ、徒費を省き礼を守ることを教えられました。
 また叡山の大徳 元三大師(良源上人)は、出離菩提にのみ志しておられましたが、却って至尊の帰依を得て、一山は隆昌の絶頂に達しました。大師これを見て懼れ怪しみ、疑心の色ありしが、やがて「菩提を勤め求むればすなわち現世の悉地を成ず」といえる金言を見出だして、わずかに不安の念を払われたと伝えられています。
 冥加を重んぜられた方は、蓮如上人を以て日本佛教史上第一人者とせねばなりますまい。上人は何物もこれ佛物であると思って大切にせられました。例えば廊下に落ちている紙屑までも拾って頂かれました。
 ー 桂利劔師の法語

稲垣瑞劔師「法雷」第84号(1983年12月発行)

2024年6月5日水曜日

信後の嗜み

 蓮如上人は『和讃』の、

 「五濁悪世のわれらこそ 金剛の信心ばかりにて
  ながく生死をすてはてて 自然の浄土にいたるなれ」

の心をいただかれて、「さてさて、あらおもしろや、おもしろや」とくれぐれ仰せられたのでありますが、この法悦三昧の境にあって、如来行にいそしむのは、浮世の寿命を「法の寿命(のりのいのち)」として慶ぶのであります。
 たとい未来は極楽の宝国に入る身に決まっているからとて、前生よりさだまれる死期を急ぐといったようなことは、却って心まどえるものというべきであります。

 何人によらず、今日まで生き長らえさせていただいた所詮には、人としての道もできるだけ立派に務めようと心がけなければなりません。自分の機様と、自分の力量とをよくよく見つめて、如来の前に自分の善も悪も、智慧も愚痴もともにこれを投げすて、ただただ如来の本願の尊さを仰ぐ身になれば、自然に修まりがたき善も少しずつ修まり、廃しがたき悪も少しずつ止まります。
 信心の生活はすなわち道徳生活であり、道徳は信心の上にあらわるる徳であるとはいえ、信後には何ら道徳上の心得は要らないというのでなく、ますます佛恩報謝のため王法為本のみ教えを奉体(ほうたい=奉戴)して、仁義をもって先とすべきであります。

 『大無量寿経』に言く

 「寿命甚だ得難く佛世また値ひ難し。人信慧有ること難し。若し聞かば精進して求めよ」

 「汝、今また自ら生死老病の痛苦を厭う可し。悪露不浄にして楽しむべきもの無し。宜しく自ら決断し、身を端し行を正し、ますます諸善を作し、己を修め体を潔くし、心垢を洗除し、言行忠信にして表裏相応すべし。人能く自ら度し、転た相拯済し、精明に求願して善本を積累せよ。一世を勤苦すといえども須臾の間なり」

 「汝ら是に於て広く徳本を植えて、恩を布き恵を施して、道禁を犯すことなかれ。忍辱・精進、一心智慧をもって転た相教化し、徳を為し善を立てよ。正心正意にして斎戒清浄すること一日一夜すれば、無量寿国に在りて善を為すこと百歳するに勝れり」

と仰せられてあります。はげしき無常の風にも誘われずして、今日まで命長らえししるしには、如来のみ教えをも聞き、御摂護をもよろこび、御冥見に愧じ、法の為、社会の為、この世にあらん限り尽すところなくてはなりません。
 ー 桂利劔師の法語
稲垣瑞劔師「法雷」第84号(1983年12月発行)

よびごえの うちに信心 落處あり

 佛智の不思議は、本当に不思議で、凡夫などの想像も及ばぬところである。佛には佛智と大悲がとろけ合っておる。それがまた勅命とも名号ともとろけ合っておる。  佛の境界は、妄念に満ち満ちた私の心を、佛の心の鏡に映じて摂取不捨と抱き取って下された機法一体の大正覚である。もはや佛心の鏡に映...