2024年8月20日火曜日

随想録

   人生の秘訣

 人生は苦である。大きな苦しみがやってきた時は、業報を思うて「来よったな、来よったな」と思う。無常と苦が、ひしひしと感ぜられた時には「これが娑婆の習いである」と思う。
 人生は苦なるものと相場を極めている身は、「ここが辛抱のしどころである」と思うて、辛抱する。それも大涅槃の大理想を掌中に物を指す如く感ぜられた時に出来るのである。
 

  あてにならぬ人生

 人生は、何一つあてになるものはない。目的は向こうからはずれてくる。思うようにならぬのがこの娑婆である。あてにならぬ人生をあてにならぬと知られた時、佛法の真味が分かる。
 

  売り心

 人はお聖教によって教えられる。自分が感じさせられたことを人に言うと、人も感ずる。
 書物を読んで、人に売り心があれば、佛法を説いても佛法にならぬ。人に聞いたことで、よいことは毎日それを思い浮かべて、常に念頭から離さないようにすれば、いつしかそれが自分のものになる。そのときに人様に聞いてもらったらよい。とかく佛教徒は伝道心があまりに無さ過ぎる。
  

  桁が違う

 佛法は、佛の世界のものを、凡夫の世界に知らしめたもうたものである。佛と凡夫とは桁が違う。それをよくよく心得ておかぬと、佛法が凡夫法になる。佛法を哲学に引き下げるのもよろしくない。
  

  道は一すじ

 如来さまのおこころが分からぬといかん、おこころ通りにならぬといかん。「喚んで助けてやろう」と仰せられるのである。「喚ばれて」往けばよい。その他に往生の道は無い。そこを「極楽の道は一すじ南無阿弥陀」というたのである。思案工夫は皆わき道である。
  

  仰せのままに

 往生は、自分が「こうして」「ああして」「こうなって」「こう思うて」参ろうとするところに、往生をし損ずるのである。仰せのままに順えばよい。
 

  如来にはからわれて

 信心は、如来の意の如く、如来にはからわれることである。自力は、凡夫の意の如くしようとする。凡夫が自分の思いを練り固めるよりも、如来が「落としはせぬぞ」と仰せくださる方が、よっぽど確かでないか。

稲垣瑞劔師「法雷」第86号(1984年2月発行)

2024年8月15日木曜日

随想録

  佛力をいただく

 聖道門の悟りは、世界と自分とを二つに見ぬ世界である。凡夫が三毒の生活をやっておるうちは、絶対に悟られぬ。信心とは、迷いの世界におりながら、佛智の不思議を信じて、生死の苦海を超断することの出来る佛力をいただいたことである。

  だまされるな

 自分の心や人の言葉にだまされぬようにせねばならぬ。自分の方に自力心があり、欲があり、病気の時や困った時に祈祷するような心があると、だまされる。他力の教えを聞いても、自力の心で受け取るものだから、他力のことばが、自分のはからいになってしまう。
 

  自分の心に相手にならぬ

 佛法の世界には、自分でいばるところがない。また卑下することもなくなる。善悪にとらわれず、しかも自身が流転の凡夫たることを知らされる。本願力は、自分の心に相手にならぬようにしてくださる。それは、凡夫の小智を小智と知らされたからである。如来の大智は「空」「無我」をさとり、「大慈悲」を生み出すところの智慧である。この大智海より、「若不生者」の本願が生まれる。
 

  光寿二無量のはたらき

 万法は一如である。一如の世界は佛智のみがこれを体解したもう。一如は法界であり、法身佛である。一如の世界から阿弥陀佛が出てくださる。光寿二無量のはたらきを以て衆生を摂化したもう。

  人生の大事畢る

 信心の世界は、向上向下一時になげ捨てた境地である。願力のうちに信心を決定し、生死の海を超断し、人生の大事がここに畢ったからである。人間が迷いの世界において、たとえ多くを知ったとて、相対の智慧である。
 善いことをしたとて、無明の皮を被った雑毒の心であり、絶対の真実心ではない。それを鼻に掛けて何になるか。ただ如来の勅命に信順すれば、信心の徳として、人間の道は践み行わせていただく。とりつめて言えば、真(信心)俗(道徳)一諦である。
 

  信の力の生活

 信心の人は、信の力の生活である。それが、凡夫の業の世界を浄化してくれる。自分の力ではない。
 
稲垣瑞劔師「法雷」第86号(1984年2月発行)

2024年8月10日土曜日

ただ仰ぐ

 心も変化すれば、身も変化する。また世界も変化して一瞬も停止しない。変化のうちに安心立命はない。変化は変化のまま捨てておいて、すべてを如来の大慈悲にまかすところに安心がある、安堵がある。まかし得ざる私はどうすればよいのでしょうか。

 ただ仰げ、ただ信ぜよ。佛に無量の功徳あり、佛に無量の力あり。佛に大智大悲の誓願力がある。古の高僧方は、自己の修行も学問も、善根功徳をも、それらを極小に見て、大善大功徳ある佛の力のみを仰がれた。

 「佛は、何という大功徳の方であるものよ」

と仰ぎ仰ぎてあきれ果てられたのである。このすがたこそ、信じたすがたであり、まかしたすがたである。

 「無我」になろうと思って「無我」になれるものでなし、福を得るために「善」をしようと思っても、その心が早や汚れておる。信心しようと思っても信じられるものでない。ただ佛とは大功徳者なりと知(信知)れば、それが信心である。感ずれば、それが信心である。そこに如来と我と感応道交して、生死をはなれ、一切の苦厄を度したまう。佛の中に、我が欲する一切のものを見出だす。ここに於いてか至難なる安心立命もできるのである。

 病床も、佛の大悲心中の病床と思えば、くるしみを超えて、喜びが溢れる。
 無量の功徳の浄き月影、一輪高く、心の天に常に輝いておる。念々、これを仰ぐところ、念々安心立命がある。
 一念の浄信(佛をあて力にすること)は、道の元、功徳の母であるから、あらゆる道徳を実践せしめずにはおかない。それも、「その日その日の花の出来」と思えば心は安らかである。
 佛と我と、同死同生、親の功徳は子の功徳、まことに不可思議の妙諦である。

稲垣瑞劔師「法雷」第86号(1984年2月発行)

2024年8月5日月曜日

動きなき 佛の心 仰ぎなば 動きどおしの わがこころ見ゆ


 人は何れの処に向かってか安心立命しようとしておるのであるか。心は一秒ごとに変化して、しばらくも静止しない。これ意識流の実相である。取るべき心もなく、捨てるべき心もなく、過去心も手には取れず、現在心も影法師、未来心も泡沫の如きものである。どの心を以て、どの心に安心立命をしようとするのであろうか。

 身は是れ無常。生あれば死がある。生が死になるのではない。生も一時の変化状態なれば死もまた一時の変化である。生死は生死のままにさせておけば、それでよいではないか。生死を食い止めようと思っても、百万人の力を以てしても如何ともしがたいではないか。
 佛の大慈悲心の流れのうちの生死と思えば、生死の苦しみのまま代安住がある。

 自分が死ぬる。死にたくない。これは凡夫の常の心で、あえて不思議でもない。死にたくなければ、佛の無量寿の中で死なしたらどうか。死ぬるものを死なせまいとするから、死の恐れが出てくるのだ。生も佛の家に投げ入れ、死も佛の大悲心の中に投げ入れて、佛の大慈悲光明の中の生死と思えば、心は安らかである。この悟りが開けたら、そのとき生死を超えて、佛の無量寿の生命とつながったのである。

 佛の中に投げ入れる術が分からないから、佛の方から、我らの生死の中に入り込んでこられて、生死の依り処となってくださる。我らの生死を背に負うて、地獄の火の中も渡ってくださるのである。一念の信心まことなれば、佛は我に入り、我は佛に入りて、入我我入の妙境が得られる。

 佛の力、佛の功徳力は、凡夫が自分で、とやかくと考えるべきものでない。考うれば佛の邪魔をしたことになる。考えを捨てて信ぜよ、信ずることが出来ないと歎くことは入らぬ。如来は大慈悲者である。我が前にいますことは現前の事実である。如来のいましたもうという事実は、我を捨てたまわざる証拠である。この佛、この如来、この大悲の親を念ずる(信じて、あて力とたのむ)とき、必ず安心立命がある。

稲垣瑞劔師「法雷」第86号(1984年2月発行)

生死は佛の御いのち㈢

 「生を明らめ、死を明らめ」るとはどういうことであるか。  いわく、前述のごとく、まず因果を深信して、業報の恐ろしいことを思い、無常の迅速なること、生死の問題の重要なることを深く思念して、それからのことだ。  それからどうするのか。それから十悪を慎み、十善を修し、「諸悪莫作」の金...