2024年9月20日金曜日

生死は佛の御いのち㈡

 人間は生まれたからには死ぬにきまっている。そして生まれることも苦しいが、死ぬことが苦しみの極であることくらいは言わなくても分かったことである。これは迷える人間としての常識である。
 常識を常識のままに任しておいたならば、悟りも解脱も必要がなく、また釈尊出現の意義もないことになる。そして人間は永久に苦海に苦しまなければならない。それもよいのか。それでいやいやながら満足し、我慢しておるか。

 「人間は死を超えて不死の生命を獲得せよ」
 「不完全なる心的状態の迷いを転じて悟りに至れ」
 「罪業の縛を切って、絶対自由の解脱境に達せよ」
と、人間理性が要請しているではないか。その理性の叫びをも踏みにじって、安閑としておられるかどうか。放逸暖衣(ほういつだんい)、できるだけ楽しく娑婆七十年を送って、末は墓場の土となったらそれでよいではないか、といった気になれるかどうか。そのような人は禅師のことばに接する資格さえもない人である。

稲垣瑞劔師「法雷」第81号(1983年9月発行)

0 件のコメント:

よびごえの うちに信心 落處あり

 佛智の不思議は、本当に不思議で、凡夫などの想像も及ばぬところである。佛には佛智と大悲がとろけ合っておる。それがまた勅命とも名号ともとろけ合っておる。  佛の境界は、妄念に満ち満ちた私の心を、佛の心の鏡に映じて摂取不捨と抱き取って下された機法一体の大正覚である。もはや佛心の鏡に映...